17章 アロンの杖
1.16章、17章の文脈
日本語の新改訳聖書で読むと、17章は13節からなっています。しかし、ヘブル語の聖書では28節あります。それは、区切りの違いで、新改訳聖書では、16:36から17章が始まるようになっているので、17章の節数が多くなっているわけです。いずれにせよ、16章、17章は文脈的につながった内容です。つまり、祭司職が、神の選びであり、神の任命であることが示される三つのエピソードがつながっているのです。最初に、アロンの権威に異議を唱えて三つのグループが裁きを受けたエピソード(16:1-40)、次に同じ不平がイスラエルの全会衆から出て、祭司アロンがとりなし、宥めを行ったエピソード(16:41-50)、最後に、アロンが12部族の中で唯一祭司として選ばれていることを示す本章のエピソードです。しかし文脈はもう少し広く15章の新しい区切りから、そして20章までと考えるべきものなのでしょう。つまり、15章では、主にささげ物を献げることが奨励されていました。本章では、それを実行する必要性が、12節の私たちは「死んでしまう。滅びる」という叫びによって確認されています。そして明日読む18章以降20章までには、ささげ物を献げる祭司職の定めが語られています。要するに、人間は過ちを犯す者ですから、どうしても神の怒りに滅ぼされないためには、罪の贖いが必要であり、そのためにとりなし手としての祭司職が必要なのであり、その祭司は神の任命による、というわけです。大切なのは、祭司職は、行政的なリーダーであるという以上に、民の罪のとりなし手であるということです。
教会における牧師の職制の重要さもそういうことではないでしょうか。教会という組織を運営し、経営戦略的に教会の勢力を伸ばしていくことが彼らの任務なのではなくて、人間は罪を犯す者であるのだから、どうしても人間のために神にとりなす者が必要なのであり、みことばの勧めをもって神にとりなしていく、神に結び合わせていくことが牧師の任務なのだということ。また、その故に、牧師の働きは重視されなくてはならないのですし、その働きは、牧師が進んで望んで担うというよりは、神の任命による、という認識を持つことなのです。
2.芽を出した アロンの杖
さて民数記の著者は、重ねて祭司職の選びは神の権威によるものであることを伝えるエピソードを加えています。それは、各部族の長が自分の杖に自分の名前を書いて、あかしの箱の前に置き、翌日それが芽を出していればその持ち主が神の選んだ人である、というのです。そして翌日、アロンの杖だけが芽を出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいたと言います。アーモンドは通常1月に芽を出し、6月に実を膨らませますから、約6か月のプロセスが一夜で生じる、しかも、杖から。こうして神は、祭司職の選びは、人間ではない神の決定であることを明らかにしたのです。そしてこの結果にイスラエルの民は神を恐れました。自分たちが明らかにアロンではない、神に反逆していることを悟ったからです。しかし、大切なのは、明日読む箇所になりますが、罪を犯したなら主の裁きを恐れよ、ということよりも、罪を犯したと悟ったならば悔い改めることです。神はむやみに人に罰を加えることは望んではおられません。ただ悔い改めて、道を正して欲しいと考えておられるのです。そのために、とりなし手である祭司が立てられ、また神と和解する方法であるささげ物の規定まで定められているということです。
3.罪のとりなし手として歩む
なおアロンの大祭司職は、キリストの大祭司職の予表とされます。しかし、キリストは、アロンに勝る祭司であることがヘブル人への手紙で語られています(4-10章)。というのも、アロンは、人々に代わって、罪のためにささげ物といけにえとを献げ、罪のとりなし手として働きましたが、キリストは、自らをいけにえとし、罪のあがないと永遠の救いを完成し、私たちを、主の民とし、王とし、祭司としてくださったからです(1ペテロ2:9)。
こうして私たちは、ただ悔い改めて罪赦されるというだけではなく、私たち自身が、悔い改める者のとりなし手、つまり祭司とされていることにも気づかなくてはならないのです。キリストにあっては、皆が祭司です。ただ万人祭司であるとしても、万人が牧師というわけではありません。その違いは押さえておきましょう。牧師は、とりなしに終わらず、一人一人を同じ主のみことばによってまとめる、つまり群れを養うように、神に選ばれた器です。しかし、群れの一人一人として、身近な人々のために、とりなす責任を持っているのは、牧師も信徒も、キリスト者と言われる人は皆そうだということです。主の罪の赦しのみことばを伝え、神を恐れる人々に、罪の赦し、神の恵みを語りたいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。火や炭などを取り、燃やし運ぶための火皿には、青銅製や純金製のものがありました。全焼のいけにえのための用具として用いられた火皿は青銅製、純金製、どちらでしょうか?答えは、青銅製です(出エジプト27:3)。一般に純金製の火皿は、幕屋の七枝の燭台のための用具として用いられました(出エジプト25:38、37:23)。では今日の聖書クイズを一つ。イスラエルでは、アーモンドの花は何月に咲く花でしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
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