28章 二回目の訓示、捧げ物のおきて(安息日,月の第1日,第1の月の14日,初穂の日)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。約束の地に向けて新しい一歩を踏み出そうとしているイスラエルの民は、新しい人口調査をし、新しい土地の配分を確認し、さらに新しいライフスタイルの確認の一つとして、まず礼拝を中心とする生活、つまりささげ物をささげる生活を確認していきます。私たちの生活も礼拝を中心とする生活でありますように。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.これまでの流れ
無為無目的な旅が終わり、新しい一歩が踏み出された。アロンが死に、新しい大祭司エルアザルと新しい指導者ヨシュアが任命され、約束の地に入る準備が再開した。そこで、新しい人口調査がなされ(26,27章)土地分割の準備が進み、いよいよ新しい約束の地での新しい世代がどのように神の民として生きるべきか、新しい訓示が与えられるのである(28-36章)。
2.28章のメッセージ
新しい訓示の第一は、ささげ物についてである。それは、既にレビ記23章において述べられているものの詳述であり、28、29章の二章に渡って記されている。それは一言で言えば「礼拝を中心とする生活」と言うことができるだろう。
だから毎日(3-8節)、毎週(9,10節、)、毎月(11-15節)、そして暦に従って配列されている特別な祝日ごと(28:16-29:40)にいけにえをささげるようにその明細が明らかにされる。これまでいけにえについては、出エジプト記、レビ記でもとりあげられてきた。出エジプト記では、祭壇の設置に関連して毎日ささげるいけにえについて述べられている(29:38-41)。また、レビ記では、種々のいけにえの具体的なささげ方(1-7章)、そして特別な日、いわゆる主の例祭のささげものについて定められている(23章)。この民数記28、29章では、これらの規定を繰り返しながらも、一般信徒の義務としてよりも、祭司の義務として一年間の年中行事として最小限何をどの程度、ささげるべきかが、整理されて述べられているとみてよい。だから一般信徒が、罪、汚れ、誓願、あるいはその他の理由によってささげるいけにえは、ここに挙げられているものに付加されるものと考えるとよい(29:39)
しかし、27章のツェロフハデの娘たちの土地分配の問題が、将来的なことに関連して起こってきているように、この28、29章も、将来的なことへのビジョンに基づいて書かれていることに注意すべきである。というのは、イスラエルは、荒野を彷徨う遊牧民から、カナンに定住する農耕民族に生まれ変わろうとしていた。だから、民数記のいけにえの規定を定める15章、そして28、29章では、いけにえと同時にささげる農作物についての明細が詳しいと考えてよいのだろう。しかしながら、ここに記されているすべてのことを行うには、相当の財的可能性があった、ということである。実際、計算してみると、祭司はイスラエルの民のために、毎年113頭の雄牛と32頭の雄羊、1,086頭の子羊をいけにえとしてささげ、さらに1トン以上の小麦粉と瓶1千本の油とぶどう酒をささげなければなくなるのである。しかしイスラエルの民は、これに応じることができる状況になっていたというわけだ。神の祝福は確実であった。となれば、自らの生活に神の全支配を認め、神の祝福に感謝して歩む礼拝を中心とする生活が推奨されるのも至極当然である。その基本はと言えば、毎朝、毎夕ささげられる礼拝なのであり、今日の私たちにとってすれば、毎朝、毎夕の祈りを意味する。賛美と感謝を朝毎、夕毎に繰り返しささげること、そして週の初めと月の初めに同じように、主の栄光を拝すことが、何よりもの基本である。
3.ささげ物の意義
明細を整理してみると、基本的にささげられるのは、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、そして注ぎのささげ物となる。罪のためのいけにえは、毎月、もしくは特別の機会にささげられることになる。
しかしながら、こうしたささげ物の意義は何であろうか。いけにえがすべて、厳選されたいのちある物であった、ということからすれば、それは、すべての命が神から来たものであり、神に属するものであることを認めることである。また人間が神に造られた者である、と神の主権を認めた遜りを表明することである。
さらに注目すべきは「なだめのかおり」のささげもの、という考え方である。基本的にいけにえには、人間の罪によって引き起こされた神の怒りをなだめる、という考え方がある。それは、礼拝者の身代わりとなり罪を贖う。そういう意味では、いけにえは、すべてキリストの死の型であると見てよい。イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」であり、ただ一度ささげられた永遠のいけにえである(ヘブル9:26)。AD70年の神殿崩壊以降、神殿でいけにえをささげられることはなくなったが、実質的にキリストの死は、すでに動物のいけにえを無効にし、これを廃止した。キリストの身代わりの死が、すべてのいけにえに代わって、神の怒りをなだめ、神に近づくことを許すものとなったからである。
こうして朝ごとに、夕ごとに、私たちはキリストにあって神に近づき、神を拝する礼拝を中心とする生活を進めることになる。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:23)とイエスは教えられた。霊というのは、聖霊によって、という意味だろう。ではまこととは何か。これはよく誠実さ、真心をもってと理解されやすい。しかし、新改訳2017に「真理によって」と訳されているように、真理であるキリストによって、キリストの犠牲によって、と理解する方がよい。私たちは朝ごとに、夕ごとに、キリストの身代わりの死と共に、神の前に出て礼拝をささげる。礼拝を中心とする生活の基本をしっかり押さえたいところではないか。そして、賛美と感謝による神にささげられた歩みを進めたいところである。