11章 アモン人を打ち砕くサウル
<要約>
おはようございます。サウル王の最初の活躍が描かれます。これは、サウル王が、神に立てられた王である権威を明確にすると同時に、神ご自身が、そのご計画を遂行されることを教えています。神は何物にも左右されることなく、自らの計画を、確実に成し遂げられるお方なのです。今日も、その方に信頼し、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.サウルの王権をサポートする文脈
10章から11章の間には、本文の欠落があると言われる。つまり、「さて」とはあるが、アモン人ナハシュの侵略の物語は、唐突である。欠落しているのは、約1ヶ月後のこと、アモン人の王ナハシュがやってきて、ガド人とルベン人を虐待し、右目をえぐり出した事件である。約7000人のイスラエル人がナハシュの手を逃れ、ヤベシュ・ギルアデに逃げ込んだのだが、10章は、ナハシュが追跡してきて、このイスラエル人に降伏を迫っている状況を描いている。
彼らは自分たちを救い出してくれる者を探したが、状況は絶望的であった。ヨルダン川の東側にあるこの土地に、西側の部族から助けが来る可能性は少なかった。以前エフタがこの地で戦った際にも、援軍は与えられなかった(士師11、12章)。ナハシュは、イスラエルに援軍を求めることを許し、余裕のほどを見せている。そして、この窮状はサウルにも知らされた。するとサウルに、神の霊が激しく下り、彼の怒りは激しく燃え上がったとされる(6節)。
いくつか士師の時代の指導者たちの活躍を思わせる記述が続く。サウルは、一くびきの牛を取り、切り分けて兵士を招集した。それは、かつてエフライムのあるレビ人が、そばめを殺されたことについて、イスラエル全体にその死体を切り分けて送り、さばきを求めたことに似ている(士師19章)。また召集された民を、三組に分けて戦う戦術は、ギデオンとアビメレクの戦いを思い出させる(7:16,9:36-37)
つまりこの唐突とも思えるエピソードは、10章で、サウルの王権を疑問視する者に、それを証明する機会がついに与えられたことを伝えている。かつて、サウルが王となることについて、「この者がどうしてわれわれを救えよう」と言ってある者たちは軽蔑した(10:27)。しかしはからずも、サウルは、王としての指導力を発揮し、侵略者から実際に救う力があることを示す機会(10:27)が与えられていく。こうしてかつてミツパにおいて王としての宣言を受けたサウルは、すべての者によって支持されたわけではなかったが、今や、イスラエルのすべての者によって王権が認められていくのである。
それは、サウルが画策したことではなかった。神が計画されたことは、神自らが事を進めてくださる。実際サウルの招集は、主の招集としてイスラエルの民に認識された(7節)。事をなすのは主である。しばしば人は何の力があろうかと軽蔑してかかることがあるかもしれない。「サウルは黙っていた」(10:27)とあるように、私たちが自分たちを弁明することができない状況があったとしても、やがて、神がちょうどよい時に、引き上げてくださることを忘れてはならない。もし、不本意に足蹴にされることがあっても、「黙っている」ことが最善だ、という時がある。
2.主の権威の下にあるリーダー
サウルが王権を宣言されたギルガルはヨシュアの指揮下で、イスラエル人が始めてカナンの地に足を踏み入れた場所である。その地は、イスラエルを導かれた主を覚える場所であった。またヨシュアが主の軍の将の副将となった記念すべき場所であった。
そこで彼らは、サウルを「主の前に王とした」という。それは単に世俗的な王制国家を真似たものではなかった。サウルは主に立てられた王として、主の権威の下でイスラエルを統率する王として承認されたのである。この時点で、サウルやイスラエルの民には、形式は王制ではあっても、主の権威の下にある王としてその働きを進めるという姿勢が確認されているのであり、神はそのようなあり方を祝福してくださった、と言える。
組織体として形は世の人々と同じであれ、教会のすることは、世のそれとは決して同じものではない。牧師は、リーダーとして立てられているかもしれないが、それはあくまでも主の権威の下で、一人一人の魂を導く牧会者として立てられているに過ぎない。そこに一寸の狂いもない牧会者であってこそ、神のみこころの働きを進めることができる。神の権威の下に、神と共に、働きを進める牧師であり、信徒でありたいものである。