1列王記9章 ソロモンのその他の事業
<要約>
おはようございます。ソロモンの事業の幅広い展開が語られているところです。ソロモンの事業は、今日、ハツォル、メギド、ゲゼル、いずれにおいても、考古学的に確認されるものがあります。それらは、後の時代の事業に比べれば、規模は小さいものであれ、確かにイスラエルの一時代を築くもので、そこに神の恵みなくしてこれは成り立ちえないものであったことが理解されます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.聖別された神殿
ソロモンが、造りたいと望んでいた「すべてのものを完成したとき、主はかつてギブオンで彼に現れたときのように、再び現れた」(1節)という。そして主が語られたことは、「わたしの名」「わたしの目」「わたしの心」は、いつもそこにあるということだ(2節)。昨日の繰り返しになるが、教会は、神が特別に心を注いでおられる祝福の場である。そのために特別に聖別、つまり選び分かたれた場である。
その場に来るたびに、私たちの心は神に向かってリセットされる。神の名、神の目、神の心を意識し、私たちが神に創られた者であることを覚え、神の下にひれ伏し、神に栄誉を帰し、神の恵みの中で歩むべき決意を新たにされるのである。私たちの日々の歩みは、神の国と義を第一として生きる、その積み重ねである。「もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら」(4節)というように、いつも主の前に歩むことだろう。
ただダビデは、「全き心と正直さをもって」と言われているが、姦淫の罪も殺人の罪も犯している。彼は道徳的にも倫理的にも正しい人と言うには、汚点のある人間であった。それなのに、神の目から見れば、「全き心と正直さをもって」と評価されたのは、真に悔い改め、真に神の前に生きようとした、心の歩みがあるからだ。新改訳第三版では「全き心と正しさをもって」となっていたが新改訳2017「全き心と正直さをもって」と修正されているのは、確かに理解できることである。
人が神の前にどのように生きているかは、わかりにくいことである。表面的な言動を見ていけば世俗的に見えるような人であっても、その中身においては、真摯に神に向かい合っているのかもしれない。あるいは逆に、聖人のような歩みをしていると思われるような人であっても、その中身においては、神の目には退けられる歩みをしていることもあるだろう。大切なのは、心を見られる神の前にいかに生きているかにある。そして、神以外のものを神とせず、ただ神を神と認めていく歩みをすることである。
2.ソロモンの事業と失敗
後半は、ソロモンのエルサレム以外での事業が記録される。まず、ヒラムとの国境の調整(10-14節)がそうである。ソロモンは、協力者のヒラムにお礼としてガリラヤの町を与えている。これは、当時、国境を調整する行為として、行われた出来事を言っている。つまり、14節で、ヒラムはソロモンに金120タラントを贈っていたとあるが、ヒラムは、国境付近の町々を防御のために要塞化する費用としてソロモンに贈ったのだろう。しかし、ソロモンは、その仕事をせずに、ただ20の町を与えたのである。だから「この町々は、いったい何ですか」ということになったわけだ。世界の知恵者と言われるソロモンがこんな配慮なきことをしている、というべきか。しかし、それでもヒラムは、ソロモンに協力を惜しまず、船団をつくる手助けをしている。ソロモンもまた神の恵みに生かされた人、と言うべきだろう。
人間の社会というのはしばしば難しいものでちょっとしたことが一大事となり、うまくいかなくなることはあるものだ。しかし、全ては神の御手の中にあることだ。だから、そのようなことも、神の御手によって修復されていくし、悪い事柄も良き事柄に転じる、という信仰を持つことが大切だろう。
15節、ソロモンはハツォルとメギド、そしてゲゼルを築き直した、とされる。イスラエルには、大きな二つの大動脈とも言うべき幹線道路、地中海沿岸を通る海の道、とヨルダン川東側を通る王の道がある。ハツォルとメギド、そしてゲゼルは、どれも海の道につながる戦略的拠点であり、これを要塞化する必要があったのだろう。ゲゼルは、後の発掘調査で、城壁と町の門がソロモンの時代に修復されていることが確認されている。町の規模はそれほど大きくはなかったとは言え、ソロモンがこのように精力的にイスラエルの様々な地域のインフラを整備できたのは、一重に主が中東の平和を守られたことによる。
ソロモンは、さらに神殿における三大祭りを定め(25節)、海上交易にも進出した(26-28節)。教会も、主のあわれみと恵によって、働きを守られ、成長させられていくものである。聖別された教会を大事にし、そこで私たちを祝され、守られる神を礼拝し、その正しき関係の中に神の使命に歩こととしたい。