1歴代誌12章

12章 集められた神の民

<要約>

おはようございます。本日の箇所は、ダビデを王として認め、ダビデに加勢した人々のリストがあげられます。しかしながら、それらの人々は、ダビデの人間的策略によって集められたのでも、また彼らの人間的な判断によってダビデをよしとして集まったのでもなく、聖霊の導きによって集められた人々であることに注目させられます。教会も同じでしょう。教会も、私たちが選んだというのではなくて、神の立ててくださった指導者の下に、神の使命に応えていくために、聖霊によって集められたという認識が極めて重要です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ダビデの支援者たちのリスト

1)初期に加わった支援者たち

11章に続いて、ダビデを支援するイスラエルの部族が記録される。これらは、サウル王から迫害を受けていた期間に、ダビデに投降する者たちのリスト(1-22節)と、ヘブロン統治時代に集まった者たちのリスト(23-40節)からなっているが、時間的順序に注意して整理し直すと次のようになる。

(1)サウルに迫害を受けた初期の要害での出来事とリスト(12:8-18)

(2)サウルから逃れたペリシテ滞在期間での出来事とリスト(12:1-7,19-22)

(3)ヘブロン統治時代の出来事とリスト(11:1-3、12:23-40)

12:8-18は、ダビデがサウルから受けた迫害の最初の時期のことである。8節の「要害」は、アドラム(1サムエル22:1)かエン・ゲディ(1サムエル23:29,24:1)のいずれかと考えられ、ヨルダン東部のガドから11人の勇士がダビデのもとに集まってきた。彼らの顔は「獅子の顔で」(8節)とあるが、新共同訳は「その顔は獅子の顔のようで」と訳す。彼らの強さと優秀さを強調しているのだろうから、もう少し翻訳的には、直訳調でなくてもよいようにも思う。ともあれ大事な点は、彼らを集めたのは聖霊だ、という点である(18節)。ちょうど、教会の誕生が、ペンテコステの聖霊による働きによるものであったように、聖霊が、人々の心に働き、神のご計画を実現するように導かれる。ダビデはそういう意味では、人間的に魅力があるというよりも、神の計画に従順なしもべとして描かれている。それは、主を尋ね求めることをせず、主の信頼を裏切った不信の罪の故に死んだサウルと対比されるものである。

2)ペリシテ滞在時代に加わった支援者たち

次に12:1-7、そして飛んで12:19-22が、サウルから逃れて、16か月間ペリシテ人と共にいた時の記録である。ちょうど、1サムエル27章~2サムエル1章に当たる。12:1-7のリストは、ゲデラ(4節)、ハリフ(5節)、コラ(6節)いずれもベニヤミン族に属する者たちであり、19-22節は、マナセ族に属する者である。

注意すべきは、「あの略奪隊に当たった」(21節)とあり、ダビデがアマレク人の略奪隊と戦って勝利を収めたエピソードが前提とされていることだ(1サムエル30章)。

著者は、「日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営になった」(22節)と語る。大事な点である。ともすると、11、12章は、ダビデがいかに優秀な人材に囲まれたか、ダビデ王国の成功は人材の引き抜きの成功であるかのような読み方がされやすい。しかしそうではない。歴代誌がアマレクの略奪隊のエピソードをカットしたこと、そして「御霊が捕えた」(18節)、「主のことばのとおり」(23節)と解説を加えていることからも、神の業として、神を礼拝する民が、神の礼拝を指導するダビデのもとに集められたと読むべきだろう。そしてついに「神の陣営のような大陣営になった」つまり、見えない神の導きによって、神が選んでくださった王のもとに、まことの神の民が集められたことを語っている。

3.サウルの死後に加わった支援者たち

最後の12:23-37は、サウルの死後、初期のヘブロン統治時代にダビデのもとに参集した兵士の数の記録である。13部族のそれぞれの数を記録するものであるが、注意すべきは、北の部族の人数(29-37節)が、本来のダビデの所属部族であるユダ族(24節)よりも多く記録されていることだ。そしてその多くが、主のことばどおりに(10:14)ダビデのものとされたことである。また、主のことばが実現した結果として、「心を一つにし」(38節)「喜びがあった」(40節)とされる。まさにペンテコステの出来事のように、神が選んだ指導者ダビデのもとに、神を礼拝する民は、聖霊によって集められた。そして、そこに一致と喜びがあったのである。10章のサウルとの対比で読むと、実にそこに、神の選びと神の導き、それらを認める人々の調和があることがわかる。実に教会もそうだろう。神が立ててくださった牧師のもとに、神を礼拝する民として、聖霊によって自分たちが集められたことを自覚する教会は強い。自分がこの教会を選んだというのではなくて、神によって集められ、神の召しに立っていくと考える教会は強いと言える。神の導きを認める力を持ちたいところである。

 

 

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