20章 イスラエルの勝利
<要約>
おはようございます。東京は今日も良い天気です。新しい朝、新しい思いで、神の新しい使命にあることを覚えて、歩ませていただきたいものです。また、物事が建てあがっていくのは、決して一人の名誉ある働きによるものではなく、努力の総和です。共に労する仲間を愛し、信頼し、大事にしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ダビデの戴冠式
著者は、2サムエル記11-12章を要約するが、バテシェバとの罪についてはこれを割愛している。それはダビデの汚点を隠そうとしたわけではない。というのも、次章においてダビデが犯したもう一つの罪、人口調査については取り上げているからである。ではなぜ、このような意図的な記事の選択をしたのか。それは、契約に基づいて神の祝福の計画が進んでいることを示すためであり、人が見捨てるような罪を犯したとしても、神の愛と恵みは変わらないことを明らかにするためなのだろう。
というのも捕囚より帰国を許された民は、礼拝の民として再建されるにあたり、まず自分たちが罪赦された民であり、悔い改めを受け入れられ、回復の途上にあることを教えられる必要があった。罪を犯した者として、いつまでもその過去の記憶に生きることは許されなかった。彼らは自分たちの記憶を、罪を犯した民ではなく、罪赦された民であり、新しい使命を持った民と、整理しなくてはならなかったのである。復活のイエスも、ペテロに、「あなたは反省しているのか?」とは問われなかった。むしろ、「あなたは私の羊を飼いなさい」と語られた。
18-20章の区切りの意図は、励ましにあり、神にあって一致団結し、前進しよう、ということに他ならない。神は、忌まわしいダビデの罪を、見過ごしていたわけではない。しかし、積極的に愛をもってダビデを取り扱われたのである。金一タラントの重さは、約30キロとされる。それはあまりにも重く、頭にずっと載せ続けられるようなものではない。しかし、そもそも名誉は重たいものである。神の赦しと恵みは、それほど豊かであり大きなものであることを象徴している。神は私たちに悔い改めを求められるが、だからといっていつまでも、私たちの罪を覚えて、穿り返し、争われるようなお方ではない。神は神であって人間ではないからである。
その事実を覚えて、いたずらに、自分の過ちや失敗を嘆き、自分の人生に諦めをつけたりせず、神の祝福をもはや期待できない思いに陥らないようにしたいものである。神の前に真に悔い改めたのであるならば、礼拝の民とされている者への主の祝福を信頼しよう。そして神の恵みに応えて歩む思いをしっかり持ちたいものだ。
2.小さなエピソードの意味
さて、この短い章には、2サムエル記11-12章にはないものがある。ヤイルの子エルハナンがガテ人ゴリヤテの兄弟ラフミ、また、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが24本指の背の高い男を打ち倒したエピソードが取り上げられる。エルハナンにしても、ヨナタンにしても、あまりよく知られていない戦士である。なぜこんなエピソードが?大切なことは、この戦争の時に、ウリヤが、殺められたことだろう。歴代誌の著者は、神の歴史を正しく再解釈しようとしている。ダビデの戴冠式という名誉ある記事は、ダビデのリーダーシップに注目させる。だが、ダビデのリーダーシップは、混乱していた。むしろ、ダビデのリーダーシップを何事もなく、有能であるかのように成り立たせたのは、無名の、ダビデに黙々と従った忠実な部下たちによる。本来名誉を受けるべき存在は、ダビデではなく、軍隊を出動させた将軍ヨアブや無名の戦士エルハナンやヨナタン等である、と、ダビデと共に、リーダーシップを取った人々の貢献を強調し、神の王国が、「彼(ダビデ)」ではなく、「彼らダビデとその家来たち」の手で築き上げられたことに注意を促している(8節)。
物事が立ち上がっていくのは、全て有能なリーダーに帰せられることではない。むしろ平凡なリーダーと平凡な信徒であれ、彼らが一致して労すれば、それなりの神の祝福を得られるであろう、と理解すべきである。だから、教会が建てあがることの名誉も、すべて牧師に帰されるものではない。神がその教会の群れを牧する責任を与えられた牧師と共にリーダーシップを取った一人ひとりの活躍に帰される。私たちが互いに賜物を補いあい、複数の者たちの一致団結、協力によってこそ、神の御国は大きく前進し、完成に向けて動かされていく。小さなあなたの働きも神に覚えられ、命の書に記されるのである。