2サムエル記10章

10章 アンモンとアラムとの戦い
<要約>
おはようございます。今日の箇所では、ダビデに起こったアンモンの挑戦が、さらにダビデの王国を強化し、強くしていく機会となることを見ていきます。大切なのは、神が計画の通りに物事を導いていかれることであり、そのために多くの試練を私たちは通らされることもある、ということでしょう。常に主に信頼し、前に進みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.イスラエルとアンモン
善意は必ずしも善意として受け止められるわけではない。人は様々な受け止め方をする。人の心は複雑なものだ。ゆえなく関係が壊れていくことがある。それは人間が罪人であるが故の、やっかいな問題である。アンモン人の新しい王に、ダビデが善意から使節を派遣した。なぜアンモン人なのか。1サムエル記11章に、アンモン人とイスラエルの接触が描かれている。そこで、アンモン人は、ヤベシュ・ギルアデの人々を冷酷に扱い攻め滅ぼそうとしていた。その危機を救ったのが先王のサウルである。その後ダビデは、彼らの王ナハシュと友好関係を築き上げるのに成功したが、統治者が交代したので友好関係を継続する意図があったのだろう。実際、彼らの首都ラバは、現在のヨルダンの首都アンマンであり、エルサレムからはわずか80キロに過ぎない。すでにアンモン人は、イスラエルの支配下にあったが、ダビデは、不要な衝突が起こることを予め避け、中東における共存共栄をはかろうと考えたと思われる。
ところが、アンモン人の王ナハシュの子ハヌンは、家臣たちの助言に耳を傾け、父の友好政策を翻して、ダビデの使者たちを侮辱した。またハヌンはダビデの憎しみをかったと見るや否や近隣の王に呼びかけ、戦闘態勢を整えた。これは事実上の宣戦布告である。ツォバは、アラム(シリヤ)人の町で、ハマテとダマスコの間にあった。サウル王の死後、ツォバの王ハダデ・エゼルは勢力回復をはかったので、ダビデはこれを撃ち、多量の青銅などを奪い取っている(2サムエル8:3)。だから彼らにとっても、これは一つの復讐の機会であった。「マアカ」は、その南側に位置し、北はヘルモン山、西は上部ヨルダン川、南はゲシュルに接するアラムの小国である。「トブ」は、さらにその南側に位置し、北側はアンモンに接するアラムの町である。もともと彼らは、今日のヨルダンにあるラバを首都としていたからエルサレムとの距離は近い。そのエルサレムを北側から攻め入るように布陣した。
2.イスラエルの勝利と中東での覇権
この戦いが、イスラエルにとっては、五分五分、決して容易な戦いではなかったことは、ヨアブの立ち振る舞いからも理解できる。ヨアブは、兄弟アビシャイと戦略を練り、互いに協力しあうことを確認している。また、ヨアブは言った「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために、奮い立とう。主が、御目にかなうことをされるのだ」(12節)かつてダビデが、絶体絶命を感じながら奮い立ったように、ヨアブもまた奮い立っている。しかしその結果については、神にゆだねている点が興味深い。勝利を求めて祈るのではない。あくまでも、主が御心に適うことをなされるようにと祈るのである。決定は神の御手にある。そこに、ヨアブの信仰を見ることができる。
果たして、この戦争は、イスラエルにとって非常に重要な結果をもたらした。イスラエルはアラムの同盟軍を打ち破り、アラム人のみならず彼らのすべての同盟国家を従えることになった。つまり、イスラエルは、東と北の強力なアラム諸国家を従属させ、エジプトとアラビヤ・シリヤの地とを結ぶ主要交易路の支配権を確保したことを意味している。イスラエルは中東における政治的覇権と経済的利権を手中にした。中東における勢力均衡の地図が塗り替えられ、イスラエルを中心とする覇権秩序が確立される。ダビデの最盛期が訪れたということだ。
3.神の約束の偉大さ
神がダビデに約束された祝福はダビデが想像する以上のことであった。ダビデは、自分のみならず、イスラエルが世界の中でそのように高められていくとは決して考えもしなかったであろう。しかしそれは、すでにアブラハムやその子孫たちに歴史的に約束されていたことである。だがかつてアブラハムが、神に「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから」(創世13:14-17)。と語った時に、この状況を想像し得たであろうか。
今日、私たちにもイエス・キリストを通して約束されていることがある。それは実に大いなることである。神は私たち一人一人に、大いなる計画をもっておられる。大切なのは常に神の約束に立ち、神の約束が実現する時を待ち望みながら、神が与えられる訓練の時を過ごすことである。また神が与えられた機会において奮い立つことであろう。与えられた機会は掴まなければならない。私たちは訓練を受けるべき時に訓練を避け、奮い立って戦いに出るべき時に、引いてしまう。しかし神が約束されたことは必ず実現するのであり、神が共におられることが、勝利を予測させるものなのだから、神と共に、機をとらえてチャレンジしていくことだろう。常に、信仰によって進む勇気を持ちたいものである。

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