2サムエル記9章

9章 メフィボシェテに施された恵み
<要約>
おはようございます。今日はサウルの子孫メフィボシェテが、ヨナタンとダビデの約束の故に、憐れみを受けた箇所を読んでいきます。これは実に、私たちと神との関係のひな形となるものです。神はイエスとの契約の故に、私たちに憐れみを施すのです。この事実をしっかりと受け止めて、神に大いに期待し、信頼し、神と共に歩ませていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ヨナタンとの約束を守るダビデ
王としての地位が確立した後、ダビデは、ヨナタンとの約束を思い起こした(1サムエル20:15)。そして、ヨナタンの子孫に真実を尽くそうと考えた。彼は、都合よく、ヨナタンとの約束を忘れてもよかったが、ヨナタンあってこその今であることを忘れない男であった。そして、ヨナタンのためにできることを考えたのである。
ダビデは、ヨナタンの子、メフィボシェテを王宮に召し入れた。彼は、5歳の時に父ヨナタンと祖父サウル王の戦死の悲報に触れた。乳母が、彼を抱えて逃げだそうとしたところ、うっかり落として、そのために両足が不自由になってしまったのである。乳母が恐怖で慌てたのも無理はない。メフィボシェテは、本来サウル王とヨナタンの死後、王になるべき存在であった。だからダビデが権力を握ったら、メフィボシェテがどんな仕打ちを受けるかは、予測されることであった。だから慌てふためいて逃げ出した、というのはよく理解できることである。
そんなメフィボシェテは、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家にいた。ロ・デバルはヨルダン川の東側ギルアデ地方のこと、実際には、ガリラヤ湖南岸に近いデビルであったとされる。マキルは、その地に住んでいた人物であり、サウル家の生き残りの王子に住まいを提供していた。彼は後に、ダビデがアブシャロムに追われて苦境に立たされた時にも、援助した人物として出てくるのであるが、メフィボシェテは、その奇特な人物に匿われていた。ひっそりとエルサレムの王宮から遠く離れて暮らす彼が、ダビデに呼び出された時の思いはどんなであっただろうか。ダビデの腹の内をあれこれ考え、恐れを抱く思いであったことだろう。しかしダビデは恵みを施そうと考えていた。
2.ヨナタンの功績によるメフィボシェテの幸せ
この物語は一つの霊的な教訓を語り伝える。というのも、誰でも、神が自分を召しておられることに気づくなら、誰でも神を恐れざるを得ない。自分の人生を振り返り、自分が神に与えられた賜物を無駄にし、あらゆる浪費を重ね、さらには神に敵対的になり「神は死んだ」と神の墓を建てあげあるかのように、反抗的に生きてきていることを思わされる時に、人は神が祝福の神であると語り聞かされても、実際にはその事実をなかなか受け入れられるものではないからである。人は、自分の現実を思う時に、神が自分を祝福してくださるとは素直に信頼することができない。しかし、ダビデがメフィボシェテに「恐れることはない。私はあなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい」と語ったように、神もイエスにあって、私たちに語りかける。「恐れることはない。私はイエス・キリストの十字架のために、あなたに恵みを施したい。あなたが所有すべきものをあなたに返そう。あなたはいつも私と親しくすることができる」事実ヨハネは言っている。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)
神は、善でありあわれみ深い、と神に信頼して一歩を踏み出すならば、私たちの人生は全く違うものとなるはずである。つまり、自分が死んだ犬のようなものであることを感じながら、うつむいて生きていくのか。それとも、確かに自分は死んだ犬のようであるとしても、そのような自分に対して神が恵みを施そうとしてくださっている、と信頼して前に進んで行くのか、そこには大きな違いがある。どんな人生であっても投げ出してはいけない。
3.メフィボシェテの恵み
メフィボシェテがダビデの招きを受け入れた時に、彼は、ダビデの子として扱われ、王の食卓で食事をするようになった。それまでは陰でひっそり暮らす者であったが、彼は、本来次ぐべき祖父の地所を回復した。ダビデはサウルの地所を自分のものとしていたがそれを、メフィボシェテに返したのである。そして王族としての地位を回復することになった。しかも、抜け目のないサウルのしもべツィバは、彼のために働くことを命じられるのである。
メフィボシェテは足が不自由なままであったが、ダビデの召しに応じた後の人生はまったく異なるものであった。そして彼は思ったはずである。自分がこのような恵みを受けるのは、自分のためではない。まったくもって父ヨナタンの故であると。同じように、もし、神の召しに応じ、神の祝福の歩みを感じることができるとするならば、それは、自分のためではなく、ましてあの人のためでもない。全くもってイエス・キリストのためである。イエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架にかかり、神の怒りのすべてを受け止め、よみにまで下ってくださったが故に、私たちからは、神の怒りと滅びは取り去られているのである。今、神は私たちに恵みを施そうと、向かいあっておられる。もし自分が神の恵みにふさわしくないと思うのであればあるほど、神の恵みに招かれていることを疑わずに、素直に受け入れていきたいものである。神は私たちに恵みを施される。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です