5章 二人の預言者
<要約>
おはようございます。16年中断した工事を再開する、そのエネルギーたるや、大変なものがあったことと思います。それを成し遂げたのは、神のことば、実に、聖書であったことに注意したいところです。朝毎に聖書を開き、聖書を読む、それが何になろうか、というものではなく、それは、私たちの人生を大きく変えていく力になることを覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.二人の預言者ハガイとゼカリヤ
BC520年、主の預言者ハガイとゼカリヤがエルサレムに来ていた。彼は、過去16年間の工事の妨げにより、人々がどれだけ落胆し、励ましを必要としているかを良く知っていた。エルサレム帰還後、人々は神殿再建の工事を邪魔され、阻止されるばかりで少しも進めることができなかったのである(16節)。そこに神の預言者が現れ、イスラエルの人々を励まし、新たに工事再開の定礎式を行ったわけである。
しかし再びこれを止めさせようと、川向うの総督タテナイとシェタル・ボズナイ、そしてその同僚の知事たちがやってきた。彼らは、そもそも、本当にキュロス王の命令が出たかどうかを問題にし、ダレイオス王に書状を送っている。その書状の写しが8-17節である。
実に、16年の空白の時が流れた後、神の宮を再建するには、相当のエネルギーを必要としたことであろう。神はそのようなイスラエルの民の心を動かすために二人の預言者を起こし遣わされた。ハガイ書はその記録であり、エズラ記と併せ読む時に、そのメッセージも良く理解される。神が私たちに何かをさせようと考えられる時に、いつも神は私たちに神のみ言葉を語る使者を遣わされる。そして異教の環境の中にあれ、神の言葉に耳を傾け、それに従うならば、異国の王すら神は用いて神の業を進められるのである(エズラ1:1)。しかし、たとえ神を信じていても、大いなる結果を期待せず、神の声に聞き従おうとしないならば、それは、神のみこころを受けそこなう結果となる。
2.神の言葉に力づけられる
そういう意味では、私たちの人生には、つぶやきと不信仰により、神の業を取りこぼす無為な時間を過ごしやすいものではないか。神にビジョンを語られても、そんなことはできないと心がつぶやき、協力者もいない、助け手もいないと後ろ向きになるばかりで、何もせずにやっぱりできないと心を頑なにさせてしまうことが多い。それはまさに、エジプトを脱出したイスラエルの民が、本来ならば11日間で行くはずのところを、40年間さ迷い続けたのと似ている。私たちが信じている神は、天地創造の神であることをよく理解しなくてはいけない。信仰によってこそ進められることがある。この世的に物事を計算ずくめで考えていても、信仰がなければ起こり得ないことがある。現状がどうであれ、神のことばが私たちと共にあり、神の目でもって状況を見、神と共に働く時に、物事が大きく進む、私たちの思いを超えた働きがなされることがある。もちろん、それは、一朝一夕にして起こりうることばかりではない。神の業は、人間の時間を無視して事がなっていく、例外ばかりを意味するのではない。
あなたの前には瓦礫の山が多くあるかもしれない。あるいは、なすべきことがたくさんあり、どこから手をつけたらよいのかわからないほどに、混乱することもあるかもしれない。あるいは、自分には全くもって力がなく、働きはわかっていても、働きに向かう気力すらないことがあるかもしれない。あるいは、反対が強すぎて、競争がありすぎて、それだけでも、もうやる気が失われていることがあるかもしれない。大切なことは、神の言葉に耳を傾けることである。神のことばに力づけられることである。私たちを助ける、神の預言者の声に耳を傾けることである。私たちを動かすのは神の言葉である。