5章 納められた契約の箱
<要約>
おはようございます。1列王記の並行箇所と読み比べてみていくと非常に面白い部分でしょう。歴代誌の著者が礼拝をどのように考え教えようとしたかが理解されるところです。やはり教会では、ただ神だけが崇められ、神だけに思いが集中させられ、神の圧倒的な栄光に恵まれるところでありたいものです。一切の人間的なないものねだりが起こらない場所でありますように。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.著者の関心
並行記事は1列王記6-7章になるが、著者は、その約半分を省略している。そして、新改訳2017では、その特徴はあまりよく訳されていないが、3:8-4:11に至る段落冒頭のことばは(3:8、10、14、15、16a、16b、4:1、2、6、7、8a、8b 、9、11a)、必ずバ・ヤアッシュ(彼は造った)という表現で始まり、それはスタンプで押したように幕屋建設の各プロセスの完了を丁寧に確認するモーセの記録(出エジプト36:1-39:32)とよく似ている。つまり、著者は、ソロモンがモーセ同様、神に語られたことに忠実であったことを語ろうとしている。こうして神殿は完成した。幕屋という可動式の聖所は、恒久的な建物となり、それは神の臨在は、永久にイスラエルのものとなった、象徴となった。
さて、本章の並行記事は1列王記8章になるが、著者は、ここで重要な付け加えをいくつか行っている。そこにまた著者の意図がある。
完成した神殿はがらんどうであった。そこで、著者は、神殿の内部に、聖別された用具が運び入れられ、納められていく様子を伝えている。それは1列王記8章の記事とほとんど変わらない。しかし、異なるのは、納めた後の記事、1列王記では、主の栄光が宮に満ちて、祭司たちが立って仕えることができなかった、と続き、ソロモンの祈り、そしていけにえを献げる礼拝へと書き進められていくが、歴代誌では、まず歌い手たちによる礼拝の様子が描かれ、主の宮に栄光が満ちて祭司たちが立って仕えることができなかったと続き、その後にソロモンの祈りが詳しく取り上げられている。順番が違い、また礼拝の形式も違う。列王記はいけにを主とする礼拝であり、歴代誌では、歌い手たちに導かれる礼拝が中心となっている。
2.一つとなる礼拝
つまり、著者の関心は、歌い手に導かれた、イスラエルの民の礼拝が行われ、そこに神の栄光が満ちたことを示すことにある。神は神殿という建物に住まわれるのではない、神はまさにイスラエルの民の中に住まわれるお方である。そして、イスラエルの民がささげた礼拝は、「まるで一人のように一致して歌声を響かせた」礼拝である。礼拝の模範がそこに示されていると考えてよい。既に述べたように、歴代誌は、礼拝の再建がテーマであるとするならば、私たちの教会の礼拝もどうあるべきかを教えられるところであろう。
教会に来る者の心がばらばらであったら、それは礼拝にはならない。形は礼拝をしているようであっても、祭司たちが立って仕えることもできないほど、主の栄光が宮に満ちることにはならないだろう。まさに「主は誠にいつくしみ深い、その恵みはとこしえまで」と皆の心が真っすぐ主に向かい、一つになって注ぎだされるところに、それは起こるのである。歴代誌の読者たちは、こうして、いかにして、神を中心に据えて、神への大いなる賛美へと心を集中させるべきかを教えられたことである。教会は、神の栄光が満ちる場であり、人間の栄光を輝かせる場ではない。神が民を赦し、癒し、回復する、神の祝福の場なのである。