2歴代誌3章

4章 神殿の用具

<要約>

おはようございます。教会を建て上げるというのは、全く人間の業ではなく神の業である、そのようなしっかりとした認識をもって、主に仕えてまいりたいところです。能力にあらず、権勢によらず、主の霊に寄り頼む、遜った働きに、主の栄光はいよいよ現れることでしょう。どんな人をも、能力がないと非難してはなりません。どんな人をも、能力があると称賛してはなりません。ただ皆で主の助けと恵みに信頼して、なすべきことをなすのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神殿を建て上げる

神殿で用いられる青銅の祭壇、鋳物の海、洗盤などの製作が記録される。これらは皆「規格どおりに」(7、20節)造られた。かつて幕屋を造った際、「主がモーセに命じられた通りに」(出エジプト39-40章)造ったことを思い起こさせる。神殿および、神殿の用具が、神のみこころに沿って、規格どおりに造られることが、やはり、この事業の主が誰であるかを思わされところだ。

教会を建てあげることは、神の業である。それは、会衆の意見を吸い上げ、総意をまとめ上げて建てる類のものではない。すでに、神のみことばに従う訓練のできている者たちが、神のみことばに聞き、従うところから出来ていくものだろう。そういう意味では、神の計画、神の命令に意を注ぐ思いがなくては、教会は建て上がらない。それは、具体的に言えば、聖書をよく読む営みが教会に興らない限り、真の意味で教会が教会らしく建て上がることはない、ということだ。

また、ソロモンは、この時期、内政、外交、経済と、様々な働きで忙しい時期であった。しかしそれでもこれらをすべて、やり遂げることができたのは、やはり、神がそのような人材フラムを備えてくださったこともあるのだろう。フラムは、「王が注文した仕事を完成した」(11節)とある。

2.主が備えられる

またフラムの仕事は王の仕事として記録される(17節)。まさに教会に必要とされるのは、其々の教会に神が立てられた指導者と一つ心になって、教会を建て上げるように働く奉仕者である。教会は共同の業として建て上げられていくのだ。

さらにソロモンは、これらを、「ヨルダンの低地、スコテとツェレダとの間の粘土層の地で、これらを鋳造した。」(17節)と言う。粘土は、鋳型のために必要なものであった。簡単な記述であるが、教会を建てあげるために必要とされるものは、神ご自身がすでに備えてくださることだ。私たちには、何一つ用意するものはない。自分には何かの力があって、自分の手で成し遂げた、と錯覚するようなことがあるだけで、実際には、神が必要なものを満たし、備え、導いてくださるのである。自分でできる、あるいはできないと思うところに私たちの高慢さがある。むしろ、すでに与えられているものを生かしていく、身近にあるものを生かしていく、ことを大事にしたいものだ。

そういう意味では、いつでも祈りの中に、自分自身が今、何を活用するように与えられているのかを悟る力も必要だ。無い物ねだりではなく、既にあるものを考えるのである。神が自然の恵みとして与えられているもの、私たちの周りに、あるいは、私たちの内に備えられているものに、目を留めていくのである。主が私たちに主が備えられた富の豊かさを用いる目、用いる力を備えられていきたいものである。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です