エゼキエル書33章

33章 エルサレム陥落の報とエゼキエルの預言の再開(33:1-33)

おはようございます。エゼキエルのもとにエルサレム陥落の報があり、彼の預言活動が再開しています。後半は回復と希望のメッセージですが、聞く者の態度が確認されます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.見張り人として立つ

これまでエゼキエル書は、①預言者エゼキエルの召命(1-3章)、②イスラエルの罪と神の裁き(4-24章)、③諸外国に対する神の裁き(25-32章)を語ってきました。大雑把に捉えればそれは裁きのメッセージが中心です。しかし本日からの後半は(33-48章)、イスラエルの回復のメッセージが中心となります。つまり本章の33章はエゼキエルの預言活動の転換点です。

そこでエゼキエルは、まず見張り人として立てられた預言者としての責任を確認させられて、新しい預言活動へと入っています(1-9節)。預言者が警告すべき時にそれをしないのなら、その責任を問われます。しかしその職務を全うしている限り、人が耳を貸そうとしなくても、自分の命を救うことになります。聖書により人間として生きるべき道を教えられているキリスト者には、同じような責任があると言うべきでしょう。事なかれ主義、臆病な平和主義は、その責任を問われます。どのように語るかという問題はあるとしても、語るべきことはしっかり語る、それが、キリスト者の責任です。そして語るべきことを守るなら、自らのいのちをも救うことになります。

2.見張り人が語るべきこと

そこでまず見張り人は、当時の人々が抱いていた信仰的な疑問について、神の回答を告げました。まず、第一に、罪意識を深く持ちすぎる人々に対して(10節)。「わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。かえって、悪しき者がその道から立ち返り、生きる事を喜ぶ(11節)」。神は冷酷な裁き主ではありません。慈愛に満ちたお方です。人間の社会では、人が犯した罪は決して忘れられないものでしょう。いつまでもそのレッテルは剥がされず、その人を痛めつける鞭が捨て去られることもありません。しかし、神は、そんな人の意地悪に負けるなというのです。むしろ、悪の道から離れ、いのちの掟に従って歩むなら、必ず生きる。神がいつまでも呪いを浴びせ続けることはないと言うのです。

第二に、そのように語る神を信じられない人々に対して(17節)。神に二言はありません。神は人の行いに応じて、人を裁くのです。神は、二枚舌の方ではありません。真実で誠実なお方です。

3.エルサレム陥落の知らせ

さて、エゼキエルのもとにエルサレム陥落の知らせが届きました。「12年目の第10の月の5日」は、BC585年1月のことで、エルサレムの陥落(第11年の第5の月の7日、2列王25:8)から1年半後のことです。見張り人としての召しを受けたエゼキエルの預言活動が、再び新しく開始されます(24:25-27)。

まずエゼキエルは捕虜とならずユダに残された者たちに対する警告を告げます(24節)。彼らは、エルサレムが滅びた現実を目の当たりにしながら、悔い改めようとはしませんでした(23-29節)。むしろ、エルサレムがこんな事態になったのは、捕虜となってエルサレムから連れ去られた者たちの責任だと考えたのです。しかし、そうではありません。悔い改め、正しい道を歩まずして、彼らにも先の人生はありませんでした。続いてバビロンに連れ去れた捕虜たちに対する警告が告げられます(30節)。彼らは、エゼキエルの語ることに興味を向けるようになります(31節)。しかしそれも深い悔い改めに基づくものではなく、単なる好奇心によるものでした。神のことばを日々の糧として生きる、そこに神の祝福があるのです。それぞれの生き方に報いられるお方がおられるのです。