エゼキエル書31章

31章 切り倒された巨木(31:1-18)

おはようございます。人はどんなに高められても、何も持たない裸身の存在であることを忘れてはなりません。むしろ、持つ者は持たない者と分かち合う心を持ちたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.再びエジプトへの預言

「第11年の第3の月の1日」、先の預言の2ヶ月後(BC587年6月)、バビロニヤ軍に包囲され、籠城攻めとなっていたエルサレムの人々は、エジプトからの援軍を待ち望んでいました。そのエジプトについて、さらに預言が与えられています。先の29章は、自らを神とするエジプトの奢りを、30章では、エジプトに起こる災いを、そしてこの31章では、再びエジプトの高慢さがこずえが雲の中に至る、勢いのある木に例えられて、指摘されています。それはすべてに優って美しいが、切り倒されると。

3節、新改訳2017も、基本的に第三版の訳を踏襲し、「見よ。アッシリア。それはレバノンの杉」と訳されています。新共同訳では、「見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ」とあります。ヘブル語の原文は「ヒネー、アシュール、エレゼ」単語をそのまま訳せば「見よ、アッシリヤ、杉」となります。おそらく新共同訳では、「アシュール」を「アッシリヤ」と訳すよりは、「糸杉」を意味する似通った単語で読み替えた方が適切だと考えたのでしょう。確かにその方が、エジプトの繁栄ぶりを称賛する文脈の中では自然のように思われます。しかし、かつてエレミヤは、「見よ。わたしはアッシリアの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する。」(50:18)と預言しました。バビロンはアッシリアと同類とされ、このエジプトもまたその高慢のゆえに、神の御手によって切り倒されるのです。となれば、「見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、エジプトの王とその国を罰する」という意味でこれを語ったとなれば、十分意味が伝わります。新改訳2017のようにアッシリヤと訳しても、それほど間違ってはいない、と言うことです。

2.ぞんざいな結末

大事なことは、エジプトの強大さそのものが問題なのではなく、その高ぶりです。エジプトと言えばピラミッド、なぜ一握りの人間のために、盲目的に重労働を強いられるような社会構造が出来てしまうのか、実に不思議です。しかし、現代も同じです。固定化された不思議な社会の序列の中で、何にも考えず、あるいはこんな序列から抜け出したいと喘いで人は生きているものではないでしょうか。大切なのは、神はそのような時代をよしとされてはいないことでしょう。どんな人間も尊い人生を生きる権利があるものです。神に祈ることの意義は、そういうものではないでしょうか。神の秩序が回復されますように、すべての人の人権が尊ばれて「すべての木が慰められますように」(16節)と覚めた心で祈る人々が、求められていることでしょう。

18節「地下の国」は、ヘブル語でシェオール。それはすべての死者が集められる場を意味します。聖書では他に「真っ暗な地」(ヨブ10:22)、「よみ」(ヨブ26:6)、「地の深い所」(詩篇63:9)とも呼ばれています。エジプト人は、割礼を受け、また死に対する関心は深く、手厚く葬るのがその習慣でした。かつて私はエジプト国立博物館を訪れて、古王国から新王国時代の様々な棺を見学しましたが、特に古王国時代のそれには、棺の内外に、実に細かで手の込んだ装飾が施されていました。それほどまで国王を大事に葬っていながら、神は、その行き先を割礼を受けない者たちと同じにする、つまりぞんざいに葬られた者たちと同じにする、というのです。

栄華を極めることが悪いのではありません。大事なことはすべて神に与えられたものと謙虚な思いを忘れず、正しくその富を用いることです。与えられたら、自分は十分いただいた、とそれを分け与えることです。高められ讃えられる方は神お一人です。