10章 神殿を離れさった主の栄光(10:1-22)
おはようございます。主の裁きの原因が語られた後(8章)、主の裁きが実行され(9章)、主がエルサレムを立ち去られます。主の臨在の尊さを改めて教えられるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ケルビム、主の臨在
ケルビムは、天使のような存在で、新改訳はこれまで複数形のケルビムと単数形のケルブを区別して訳してきました。2017の訳では複数形に統一されたようです。確かに、単数複数を厳密に区別する習慣のない日本語からすれば、ありうる修正でしょう(7、14節)。
ともあれ、四つの顔(ケルビム、人間、獅子、鷲)と手と足を持つ有翼のケルビムと呼ばれる生き物は、旧約聖書の他の箇所では、聖所の付添人、守護者として描かれています。たとえば創世記では、エデンの園のいのちの木への道を守る存在として(創世記3:24)、出エジプト記では、至聖所に安置された契約の箱を守る存在として(出エジプト25:18-20)、さらに詩篇では、主の御座を支える存在として描かれています(詩篇18:10)。この10章では、神の王座を支え、移動させる存在です。エゼキエルは、この生き物をかつてケバル川のほとりで見たことを思い出していますが、本章でふと心に留まるのは、エゼキエルがこの生き物をじっと見つめていることです。先の章で神の救いに相応しいものを、荒布の衣をまとった人が、区別しようと出ていき、誰もいなかった。人類が無に帰すイメージの中で、神の存在だけがクローズアップされています。神は、人類がいなくても存在する。拝まれるものでなくても、神は永遠に時を超えて、ただお一人で存在するという不思議、事実に気づかなければならないように思います。人類は神あっての存在であって、その逆ではないのです。人間がいかに有能であろうとも、被造物に過ぎない、その現実を謙虚に受け止めていくべきことを思わされるところです。
2.主の栄光が立ち去る
さて二つの出来事に注目されます。一つは、先の亜麻布の衣を着た人が再び登場、主に命じられるまま、今度は、裁きの執行者として行動しています。彼は炭火をケルビムから受け取るとエルサレムの都にまき散らすのです。具体的にそれは、BC586年、バビロン軍によって燃やされ火の海となったエルサレム(2列王25:9)を象徴的に語っています。バビロンの侵略は、神の裁きとして起こったというわけです。しかも火が聖めの行為を意図するものであるとすれば、それは単なる災いではなく、民の罪を取り除き、町を聖めようとするものです(イザヤ6:6-7、マラキ3:2-3)。
また18節、エゼキエルは、主の栄光がもはや、エルサレムを立ち去ろうとしている様を目撃します。すでに9:3で、エゼキエルは、主の栄光がケルビムから立ち上って、神殿の敷居に向かっていることを目撃しています。ここではケルビムが先に神殿の敷居から出て、主の栄光が後を追いかけ(18節)、そして地上から上って行く様が描かれています。要するに、神殿から主の栄光が失われたのです。とうとう偶像に満ち、汚れた神殿は、もはや主の住まうところではなくなった、ということでしょう。
主が立ち去る、これほど恐ろしい現実はないはずです。ダビデは「私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を、私から取り去らないでください」(詩篇51:11)と祈りましたが、神に見捨てられる恐怖は実際にあるものです。気づいた時には、自分がそのようなものでしかないことに愕然とした思いにさせられることがあります。
しかしそのような現実があることを認めた上で、神の愛はなおも変わらず、私たちと共にあることを覚えるべきでしょう。神が私たちを見捨てるように思われても、そのようにされることはありません。ただ私たちが神を遠ざける現実があるのみです。求められるべきことは、我に返った放蕩息子がしたように、主に立ち戻ることなのです。