9章 まずわたしの聖所から始めよ(9:1-11)
おはようございます。「まずわたしの聖所から始めよ」という主のことばが心に残るところです。神の前に、熱心に悔い改め、主を求める歩みへと高められたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.さばきは実行された
9章は8章で宣告された主の裁きが、具体的に実行される幻を描いています。その最初の行為は、裁きから除外される者にしるしを付けることでした(4節)。腰に書記の筆入れを付け、亜麻布の衣をまとっている者が、都を行き巡って、額にしるしをつけるのです(2節)。彼は、破壊する武器を手にした6人の男たちの災いから、ある人々を守るために、遣わされた者でした。
ここで御霊が私たちに思い起こさせることは、ヨハネの黙示録に描かれた、災いが及ぼされる前に神のしもべたちの額にしるしをつけたみ使い(黙示録7:3)、そして、過ぎ越しの夜に鴨居と二本の門柱に塗り付けられた血のしるし(出エジプト12:23)でしょう。これらは、神が救いに値する聖徒を区別し守られていくことを教えています。
今コロナ禍にあって思わされることは、これが私たちに対する悔い改めの機会となっていることです。果たして一人一人が礼拝や祈り会を大事にしてきたのか、つまり一人一人が、神のみことばに深く結び付く信仰を養い育て、自立した信仰者となって、まことの礼拝ととりなしの祈りを献げるために教会へ足を運んできたのか、それとも、神のことばならぬ、人や奉仕といった何か他のものに結び付いて教会につながってきたのかが明らかになっていると言えるでしょう。主の裁きが始まり残される人々は、主の心を我が心とし、悲しむべきものを嘆き悲しみ祈る人々なのです(4節)。
2.まず私の聖所から始めよ
しかしながら、残されるべき人々についてさらに深く考えるべきことがあります(5、6節)。注目すべきは、書記の筆入れを付け、亜麻布の衣をまとっている人が、しるしをつけるどころか、スルーばかりしていくことです。結果、後に続く六人の破壊する武器を持った男たちは、神殿にいる者はもちろん、都中にいる者たちを皆殺しにしていきます。つまり、しるしをつけるような者は誰一人いなかったのです。
ヨハネの福音書8章の、姦淫の現場で捕まえられた女性のエピソードが思い出されます。この時、姦淫の罪を問われた女性の前で、イエスは、その女を連れ出した者たちに「罪のない者がまず石打ちの処刑を実行すべきだ」と答え、年長者たちから一人、二人と去って行き、そこには、イエスの他誰も残されなかったのです。また、ソドムとゴモラに対するアブラハムのとりなしが思い出されます。そこでもアブラハムのとりなしにも関わらず、最終的にその町に正しい者は誰一人いなかった、という状況がありました。これがまさに、エゼキエルが伝えたいことでした。そしてそれは現代においてもありうることなのです。イエスは、ルカの福音書18章の中でいつでも祈るべきことのたとえ話として、悪い裁判官の例をあげています。そしてその締めくくりに「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と加えています。イエスは、終末において神の目に適う祈り手がいるだろうか、信仰的な応答があるだろうか、と語っているのです。
大切なのは、私たちが書記の筆入れを付け、亜麻布の衣をまとっている人にスルーされるような霊的現実を持っていることを素直に認めていくことでしょう。そして黙示録でヨハネが勧めるように、熱心に悔い改めて生きることです。「義人はいない。一人もいない(ローマ3:10)」という現実に立って、神の十字架と復活のあわれみなくして立ちおおせない現実を覚えて、謙虚に救いの歩みをお守りくださいと主の祈りを祈りつつ歩ませていただきたいものです。