エゼキエル書8章

8章 神の目にごまかしは効かない(8:1-18)

おはようございます。人は都合の悪いことは言わないし、隠すものでしょう。しかし、人は騙せても、神の目にごまかしは効きません。光の子にふさわしい信仰の歩みをしましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.崩壊したイスラエルの信仰

8章から再び、幻による預言となり、それは11章まで続きます。エゼキエル書の第二の幻と言われる部分です。第一の幻は、BC592年エルサレム陥落の5年前、エゼキエルの召命の時に与えられたもので、それから1年2ヶ月後に与えられたものです。内容的には四つ、神殿で行われていた偶像礼拝(8章)、民に対する主の裁き(9章)、神殿から離れ去る主の栄光(10章)、エルサレムの町から離れ去る主の栄光(11章)です。第一の幻(1-3章)は裁きの起源、つまり来るべき裁きは神ご自身から来る物であることを語り、第二の幻(8-11章)は、その裁きの原因、つまりユダの罪について語っています。もし、ここで語られるとおりのことが本当に行われていたとしたなら、確かにイスラエルの神に対する信仰は、完全に崩壊していたことになりますが、それは、ありうることでした。

2.イスラエルの民全体が堕落している

まず北の門に設置された「ねたみを引き起こす「ねたみ」という像」(3節)は、恐らくアシェラ像のことでしょう。「ねたみの像」は、主が「ねたむ神」(出エジプト20:5)であるという表現から来ていますが、それを最初に神殿に持ち込んだのはマナセ王です(2列王21:7)。その後ヨシヤ王の時代に一度撤去されていますが(2列王23:6)、エゼキエルの時代には復活していました。それは王の信仰の逸脱を象徴するものでした。ただこうした偶像崇拝にも関わらず、神は、最後の最後まで、イスラエルの悔い改めを待ち望まれ、汚れた偶像のある神殿におられることを良しとされたのです(4節)。

第二に、庭の入り口の壁の穴を通り抜ける幻と壁に刻まれた忌むべきものの幻。壁の穴から入るのは、長老たちが陰で行っていることを不意打ちする意味合いがあります。イスラエルの70人の長老、つまり、イスラエルの指導者たちが、あらゆる外国の神々を拝む、隠れた部屋を持ち、そこで密かに偶像崇拝を行っていたというのです。神の律法によってイスラエルを指導していると思われた指導者たちも、その中身は偶像崇拝に冒されていたというわけです。第三に、タンムズのために泣いている女達の幻。タンムズは、枯れては芽生える植物的ないのちの神で、バビロンやシュメールに盛んであった信仰です。ギリシャのアドニス礼拝と同じでした。アドニスは、ビブロス神話の王キニラスの子で、アシュタロテの夫です。毎年夏の終わり、夏至になると、彼の死を記念してビブロスのすべての女はレバノンにあるアドニスの神殿でその死を悼み、嘆くのです。喪の期間が過ぎるとその神像は神殿構内に埋められ、翌日掘り出されて神殿内に戻され、その復活を音楽と踊りで祝う酒宴乱舞が繰り広げられます。いわゆる豊穣の祭儀祭典であって、それはイスラエルの女達を虜にしたのです。最後に、主の宮の内庭で行われている太陽崇拝。内庭は、祭司とレビ人だけが行くことのできる場所です。ですからそこにいる25人ばかりの人は、祭司あるいはレビ人の一部でしょう。いわゆる宗教的な指導者です。その彼らがもはや主を捨てて太陽を拝んでいたのです。

3.光の子として歩む

こうして、王、政治的指導者、女達、そして宗教的指導者、つまりイスラエル全体が、主に背を向け偶像崇拝に陥っていたとされます。一部よく理解できない表現(ぶどうのつるを自分たちの鼻にさす)もありますが、文脈的には彼らは神の激しい怒りに晒されているということでしょう。パウロが言うように、今は夜が深まり、昼が近づいた時代です(ローマ13:1-14)。神の目にごまかしは効きません。光の子らしい歩みをしたいものです。