5章 神の怒りが出し尽くされる(5:1-4)
おはようございます。イスラエルに対する神の裁きが、髪とひげのパフォーマンスにたとえられて語られます。神の怒りが下される背景をよく理解したいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.髪とひげのパフォーマンス
神は、エゼキエルにあるパフォーマンスをするように命じられます。髪とひげを剃って、その三分の一を町の中で焼き、三分の一を剣で打ち、三分の一を風で吹き散らすのです。「剣」(1、2節)は、主の契約に背いた者へのさばきを、髪やひげを剃ること(1節)は、悲しみと嘆きを、秤で量ること(1節)は、そのさばきが主によって計画されたことを意味しています。そしてこのパフォーマンスそれ自体は、エルサレムの住民が三つの運命を辿ることを示しているのです。つまり彼らは、①疫病と飢饉で死ぬか(焼き)、②殺されるか(剣で打ち)、③四方に散らされるか(風に乗せて散らせ)でした(12節)。また「イスラエルの全家に燃え移る」火は、その惨事が徹底していて、逃れる者が本当にわずかであることを伝えるものです。
そもそもイスラエルは神の最愛の民でした。しかし、彼らはその神の愛に応えるどころか、諸国の民以上に、神の定めに逆らい、掟に逆らったと言います(6節)。イザヤ的に言えば「甘いぶどうのなるのを待ち望んでいたが、酔ぶどうができてしまった」(5:2)というわけです。それは具体的に、この後の章に、指導者や祭司、そして国民の堕落した状況として描かれています。ともあれ神はそのようなイスラエルに災いを宣告されます。
2.神の裁きの心
この神の裁きをどのように受け止めたらよいのでしょうか。神は厳し過ぎると言うべきでしょうか。しかし、これは既に述べたように、予め申命記28章で語られた契約に対する違反の報いです。イスラエルはもともと望み無き奴隷でした。しかし神のあわれみを受けて、そこから救い出された彼らは、新しい人生の出発点において神とシナイ山において契約を結んだのです。救いの神を覚え続け、その神との関係を大事にしながら生きるなら、神は飢饉と悪い獣、疾病と虐殺から続けて守られると。しかしそうでないならばそれらの禍が下される、と。そしてその通りのことが起こったのです。
大切なのは神とイスラエルの関係性を理解することです。たとえば、白バイの警察官は、交通規則を破る運転手を見つけて反則切符を切ります。警察官と運転手は、無機質な職務的な関係でしかありません。しかし、神とイスラエルは父子の関係にあります(申命7:6-8)。つまり家族なのです。同じ釜の飯を食べながら育ち合った父子のようなもので、苦楽を共にし、夢を共有してきました。父の深い愛情のもとに子は育ち、奴隷の状態から一つの国民となり、やがてパレスチナ全土に勢力を拡大する国となりました。神は、イスラエルを「諸国の民のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした」と、まさに父子の共同作業が実りを得たのです。しかし神の夢の本当の意図は、イスラエルが成り上がることではなくて、そのイスラエルを通して、罪の中に滅ぶ全人類が贖われることでした(創世記12:2)。イスラエルの姿を通じて、周辺諸国が神を知り、神を崇めることが期待されていたのです(詩篇67:1-2、参照Ⅰペテ2:9)。しかしイスラエルは、成り上がった瞬間神を捨て、権力と物欲にまみれた他国と同じ歩みをして堕落し、結果他国の「そしりとののしりの的」となったのです(15節)。イスラエルは警察官の目に留まったのではなく、父の期待を裏切り、悲しませたのです(レビ26:29、申命28:53-56)。神は裁きを下されました。しかし「怒りを出し尽くす」(13節)というのは、哀歌で学んだように、神の裁きがもう十分で、再び繰り返されることはないということでしょう。いつでも神の懲らしめに気づかされることがあるならば、直に立ち返る者でありたいものです。