18章 信仰的に捉える
おはようございます。バビロン、アッシリヤ、ペリシテ、モアブ、アラム、それに続いてエチオピア(クシュ)への預言が語られます。しかし基本的にこれはエチオピアへの裁きのことばではなく、同盟を結ぼうとするユダへの警告です。信仰的な姿勢を問われるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.クシュへの宣告
クシュは古代エチオピアのことである。「羽こおろぎ」は「羽をぶんぶんならすもの」の意味で、ツェツェばえと考えられている。それが多く生息している国、つまりエジプトを象徴する。BC715年、エチオピアはエジプトを征服、第25王朝を開いたので、同じことを言っており、活発に人々が行き交う大都市をイメージしている。「背の高い、はだのなめらかな国民」も、エチオピア人のこと。彼らは古代世界では背の高い民族として知られていた。ただし「なめらかな」と訳されたことばは、「先のとがった光る剣が、いつでも使えるようになって磨き上げられている状況」を意味するとも言う。戦いのためによく武装されていることで、エチオピアは、エジプトを支配するやいなや、直ちに世界の覇者になるため反アッシリヤ同盟を作ろうと使者を諸国に送った。その使者はエルサレムにもやってきて、実に同盟国にふさわしいように思われた。しかし、イザヤは、人間のよくある一時の争乱に巻き込まれてはいけない、と言う。アッシリヤの侵略を防ぐための同盟は、考えるにおよばない(3節)。人間的には得策に見えても、神が意図されないことは、起らないからだ、と言う。
2.神の時がある
夏の照りつける太陽や朝の露のように、時間が止まったかのように思えることがあっても(4節)、神が手をこまねくことはない。むしろそれは「刈り入れ前」の静けさである。鎌を入れるちょうどよい時を、神は待っておられるのである。
海に沈む夕日は、日が水平線に接するまでは、ゆっくり沈むように見える。しかし一旦水平線に接すると、みるみる沈んでいくから不思議である。同じ速度で動いているはずだから、不思議な現象である。神の時も同じで、時来れば一挙にそれは動いていく。こうして、エチオピアは、アッシリヤを打ち砕く神を認め、イスラエルに同盟を求めるのではなく貢ぎ物を携えてくるようになる、と預言される(7節)。
分脈としては、17:12-18:7を一つの区切りとして読むべきなのだろう。14節は、具体的にセナケリブのエルサレム攻撃を指している。彼らは、エルサレムを飲み尽くす勢いであったが、神の不思議な介入によって、退散させられた(2列王19:35)。
目の前の現実を見ながら、信仰的に物事を考える力の成熟が問われている。人は目先の現象を見て、最も良いと思われる物事に心を動かされやすい。しかし物事は目先の現象のみで決まるわけではない。背後におられる神の意思にすべては支配されている。仮に、どんなに情勢が右に動いていくように見えても、神がお許しにならないのであれば、右には動かない。また右に動いたとしても、それは土壇場で覆されてしまう。目に見えない神のご意思を見定めることが、何事においても得策であり、神を信じる者のなすべきことである。