ヨシュア記2章 二人の斥候
<要約>
皆さんおはようございます。選びの民ではない、遊女ラハブが、選びの民の中に加えられるエピソードです。遊女ラハブは、赤いひもと血のしるしによって、イスラエルの聖絶から守られて行きます。そこにイエス・キリストの十字架の意味が明確に示されています。それは、十字架は、神の怒りと呪いから私たちを救い出すもの、私たちが神の者として守られることのしるしでした。この十字架に留まり歩むことが私たちの祝福の始まりであるのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.天の神、地の神である主
ヨシュアは、エリコの町を攻略するために、斥候を遣わした。エリコの王はそれと気づき彼らを捜し出すのであるが、遊女ラハブによって、彼らは匿われ、助け出された。ラハブは、イスラエルの民がどのような民であるかを知っていた。彼らがエジプトから出てきた時に、神が葦の海の水を涸らされたこと、またエモリ人の二人の王を聖絶したことを、聞いていたのである。ラハブは、「主は、上は天において、下は地において、神であられる」とイスラエルの神に対する信仰を明確にしている。この信仰告白、実は、アブラハムの信仰告白そのものである。アブラハムが年を重ねて老人になった時、アブラハムは、神に対して「天の神、地の神である主」という呼び方をしている(創世記24:3)。実に、私たちの神は、天の神であり、地の神である、万物の創造者であり支配者であるという認識が大切なのだ。
しかししばしば私たちには、地の神がおられるんだったら、なぜ私たちのこの地の状況は、こんなにも複雑で、見通しが悪いのか、と思うようなことばかりであったりする。神は地の神であっても、私の神ではないことがある。あの人の神ではあっても、私の側に立ってくれる神ではない、と思うことがあるだろう。
2.赤いひもと血のしるし、十字架の神秘
しかしそうではない。あくまでも神は、私の側に立つ神であることを知らなくてはならない。どのようにしてか。ラハブは、信仰告白をし、二人の斥候に命乞いをしている(12、13節)。これに対して二人の斥候は、真実と誠実を尽くす約束をした。そして赤いひもを窓にしるしとして結びつけるべきことを語った。そしてこのしるしを離れて戸の外に出るなら、その血の責任はその人に帰すという。出エジプトの最後の災いを思いださせる約束である。最後の災いでは、かもいと二本の門柱の血が目印となり、滅ぼす者がその家を過ぎ越して災いを下さなかった。赤いひもと血が、神がラハブを認め、災いを下さないと見過ごし守る、重要な目印となった。
ラハブは、遊女であり、異邦の民である。選びの民ではない。しかも神の民の倫理からすれば、甚だしく神に忌み嫌われ聖絶の対象とされる存在である。しかし、遊女ラハブは、赤いひもを神の守りのしるしとして与えられる約束を交わしている。私たちにとっての赤いひものしるしは、イエスの十字架の血潮に他ならない。私たちにとって、神が私たちの味方ではない、と思うことは幾度もあるかもしれない。しかし、神は私たちに、イエスの十字架の血潮を、真実と誠実を尽くす約束として与えてくださっている。そこから離れるな、とそこから離れるならばその血の責任はあなたにあると。
3.主イエスの十字架への信頼
ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう」(21節)。たとえ自分が、遊女ラハブのように神の愛に程遠いと思わされようとも、神が約束されることばは真実である、と神のおことばどおりにする気持ちが必要である。イエスの十字架の死を自分の罪の赦しのため、としっかりと受け止め、イエスの側を離れず、イエスにあって神の真実と誠実を得させていただくのである。イエスの十字架の血潮は、私たちの罪の赦しのために流されたものであり、天の神、地の神の守りを得させるものである。イエスの十字架の血潮のしるしの故に、天の神、地の神は私たちの神となり、私たちに真実と誠実を尽くされる。イエスの十字架の血潮のしるしを、心の窓枠に結びつけよう。そして、神との個人的な守りの中に歩ませていただこう。