ヨシュア記 1章 後継者ヨシュア
<要約>
皆さんおはようございます。今日からヨシュア記に入ります。いよいよ、約束の地カナンへと入り、その土地を自分たちのものとする戦いが始まります。そのためにヨシュアが語ったことは、約束が既に私たちのものであること、また、主の律法に忠実であり続けること、相応しい備えと力を得ること、そして何よりも指導者のために祈ることでした。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
モーセの後継者として、ヨシュアが立てられた。ヨシュアは出エジプトの当初からモーセの従者として活躍していたが、ヨシュアを後継者として定めたのは主である(民数27:12-23)。モーセが死んで後、神はヨシュアに語られる。ヨルダン川を渡り、カナンを所有するように、と。
40年前のこと、ヨシュアはカナンの地を偵察した。その地が豊かであると同時に、そこに住む者たちの恐るべき力も知った。そしてイスラエルの民が、この主のチャレンジに応じることができず、不信仰と不従順の荒野の40年を過ごしきた様を目の当たりにしてきた。今、ヨシュアはモーセに代わってこの民をまとめ、カナンの地へ導かなくてはならなかった。果たしてその使命をどのように達成しうるのか。ヨシュアには全く見当がつかなかったことだろう。ヨシュアが置かれた状況は決して簡単なものではなかった。
1.既に祝福は私たちのものである
そのようなヨシュアに、主は命令と同時に、特別な励ましを与えられる。すでに約束の地はヨシュアの手の中にある(3節)、と。また、「あなたの前にたちはだかる者はいない」し、「モーセとともにいたように、あなたとともにいよう」(5節)と語る。大切なのは、この神の約束を信じて、足の裏で、約束の地を実際に踏み進んで行くかどうかにある。神は、今日の私たちにも、イエスの名において一切のものが私たちの手の中にあることを確信させている(ヨハネ14:13)。それらは既に手中のものとなっている。大事なのは、それを確実に自分のものとするように、勇気ある一歩を踏み出し、進んで行くことである。
2.主の律法に忠実であり続ける
またヨシュアは、モーセに啓示された「主の律法」に忠実でなければならないと教えられる。この律法こそ、イスラエルの民をユニークな存在とし、また祝福をもたらしたものである。神は、ご自身のみことばを昼も夜も絶えず口ずさみ、行うように命じられる。それは繁栄へ至る秘訣である。気まぐれに従うのではなく、すべて真心をこめて従うのである。何をどうしてよいかわからなかったら、まず神のみことばに自分を浸す所から始めてみよう。それが主に従う第一歩なのだから。
3.戦いに備える
さてヨシュアは、神の励ましと命令を受けて、民に戦いに備えるように命じた。まず糧食を備えることが命じられる。戦うためにはそれなりの備えが必要である。
次にヨシュアは、ルベン人、ガド人、マナセの半部族に対し、積極的な参戦を促した。すでに彼らはヨルダン川の東部に定住していたが、いまだ相続地を得ていない同胞のために、先頭に立って戦いを支援するように求められた。彼らがヨルダン川の東側に安住することができるのは、カナンの地の征服が完了してからである。霊的に奮闘している兄弟姉妹への配慮をいつも失わず、自発的、積極的に手助けする、それが余力のある者に期待されることであった。また、そのように働く者こそ、自身の安住をますます確かなものとすることができる。
人は自己中心な者である。キリスト信者になったとしても、そんなに簡単に自己中心性の性質は正されていくものではない。他人のために尽くしているようであっても、それは表面上のことだけで、実際には自分のためであったりする。自分に何か利するところがあるからこそ、やれることであったりする。純粋に、神の家族全体のために心を尽くし、神の栄光を現す教会を完成するために行動する、そのようにはなかなかならないものである。しかし、そのような自分の罪深い人間性を理解した上で、ただ主の恵みが豊かにあり、自分自身が変えられるように、とどこかで新しい自分に生きる決意を固めることも必要だ。
4.指導者のために祈る
「あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように」(17節)。信徒がそうであれば指導者も同じだ。指導者も主の恵みに支えられて、主の恵みによって、本当に私利私欲を超えた、神の御心に生きる働きが導かれ、守られていく必要がある。そのために、指導者のために祈ることは一層強調されなくてはならない。祈られる指導者こそ、神の民の働きに本当の意味で霊的な実を結ばせることになる。
2章 二人の斥候
ヨシュアは、エリコの町を攻略するために、斥候を遣わした。エリコの王はそれと気づき彼らを捜し出すのであるが、遊女ラハブによって、彼らは匿われ、助け出された。ラハブは、イスラエルの民がどのような民であるかを知っていた。彼らがエジプトから出てきた時に、神が葦の海の水をからされたこと、またエモリ人の二人の王を聖絶したことを、聞いていたのである。ラハブは、「主は上は天、下は地において神であられる」とイスラエルの神に対する信仰を明確にしている。この信仰告白、実は、アブラハムの信仰告白そのものである。アブラハムが年を重ねて老人になった時、アブラハムは、神に対して「天の神、地の神である主」という呼び方をしている(創世記24:3)。実に、私たちの神は、天の神であり、地の神である、万物の創造者であり支配者であるという認識が大切である。
だが、しばしば、私たちには、地の神がおられるんだったら、なぜ私たちのこの地の状況は、こんなにも複雑で、見通しが悪いのか、と思うようなことばかりであったりする。神は地の神であっても、私の神ではないことがある。あの人の神ではあっても、私自身の側に立つ神ではない、と思うことがあるだろう。
しかしそうではない。あくまでも神は、私たち自身の側に立つ神であることを知らなくてはならない。どのようにしてか。ラハブは、信仰告白をし、二人の斥候に命乞いをしている(12、13節)。これに対して二人の斥候は、真実と誠実を尽くす約束をした。そして赤いひもを窓にしるしとして結びつけるべきことを語った。そしてこのしるしを離れて戸の外に出るなら、その血の責任はその人に帰すというのである。出エジプトの最後の災いを思いださせる約束である。最後の災いでは、かもいと二本の門柱の血が目印となり、滅ぼす者がその家を過ぎ越して災いを下さなかった。赤いひもと血が私たちを神の者として守る重要な目印となる。
ラハブは、遊女であり、異邦の民である。選びの民ではない。しかも神の民の倫理からすれば、甚だしく神に忌み嫌われ聖絶の対象とされる存在である。しかし、遊女ラハブは、赤いひもをしるしとして与えられ、聖絶から守られる約束を交わされている。私たちにとっての赤いひものしるしは、イエスの十字架の血潮に他ならない。私たちにとって、神が私たちの味方ではない、と思うことは幾度もあるかもしれない。しかし、神は私たちに、イエスの十字架の血潮を、真実と誠実を尽くす約束として与えてくださっている。そこから離れるな、とそこから離れるならば、その血の責任はあなたにあると。
ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう」(21節)。たとえ自分が、遊女ラハブのように神の愛に程遠いと思わされようとも、神が約束されることばは真実である、と神のおことばどおりにする気持ちが必要である。イエスの十字架の死を自分の罪の赦しのため、としっかりと受け止め、イエスの側を離れず、イエスにあって神の真実と誠実を得させていただくのである。イエスの十字架の血潮は、私たちの罪の赦しのために流されたものであり、天の神、地の神の守りを得させるものである。イエスの十字架の血潮のしるしの故に、天の神、地の神は私たちの神となり、私たちに真実と誠実を尽くされるのである。イエスの十字架の血潮のしるしを、心の窓枠に結びつけよう。そして、神の守りの中に歩ませていただこう。