創世記38章 ユダとタマル
1.退くユダ(38:1-11)
「ユダは兄弟たちから離れて下って行き」とあります。当然そうなるのでしょうね。というのも、ヨセフをイシュマエル人の商人に売り飛ばそうと提案したのは、ユダでした(37:27)。兄弟たちは、ヨセフを売り飛ばした後、血を浸したヨセフの長服を、父のヤコブに見せて、殺されたと報告していますが、父ヤコブは、これを受け入れられませんでした。何日も、ヨセフのために嘆き悲しむ父を前に、彼らも相当良心を責められたはずです。しかし、そこで彼らは悔い改めて、父にありのままを話し、謝るのかと言えば、そうではないわけです。彼らは、罪意識の矛先を、ヨセフを売り飛ばそうと提案したユダに向けていくわけです。仲間割れです。ユダが売り飛ばそうと言い出さなかったら、こんな風にならなかったじゃないか、となったのでしょう。自分たちが殺そうとして、長子のルベンに止められたことなど、すっかり忘れているのです。実に人間というものは愚かな生き物ですね。自らの罪は棚にあげて、誰かをスケープゴートにしたてて、物事に決着をつけようとする。当然ユダは、お前たちだって、同意したじゃないか、同罪じゃないか、と思いつつも、皆の圧力を感じるだけで、居心地の悪い思いをしながら、兄弟たちを離れていくしかなかったのでしょう。
さて兄弟から離れたユダは、カナン人を妻にめとり、新しい居を構えました。これは、イスラエルの戒めでは、許されないことです(創世記24:3)。こうして長子のエルや次男のオナンが、神の怒りを買って死んだので、ユダは、子孫を残すために、長子の嫁タマルを三男シェラの妻としなくてはなりませんでした。これは「レビラート婚」と呼ばれる当時の習慣によるものです。つまり、結婚した男性が子どもを残さず死んだ場合の当時の慣習で、死んだ男性の兄弟が寡婦を自分の妻とするのです。しかしユダは、タマルに不吉なものを感じたのでしょう。シェラも死んでしまうのではないかと不安に思い、タマルをシェラの妻にはしたがらなかったのです。むしろユダはタマルの姦淫を知ると、これを機会にタマルを殺そうとするのです(24節)。
2.タマルの計略(38:12-30)
タマル危うし!というところです。けれども、タマルは頭を使いました。タマルは、売春婦を装い、ユダを騙してユダの子を身籠るのです。しかも、この売春は、単なる性的快楽に誘うものではなく、宗教的な意味を持つ売春でした。「羊の毛を切る時期」は豊穣の祭りの時を意味し(1サムエル25:4)、タマルはカナン人の民間信仰による儀式的な淫行に誘い込んだのです。ここにあるのは必死に生き残りをかけて策を練って動いた異邦人の女と、異教的なカナンの民間信仰にどっぷり浸り、もはやヤコブの家系の伝統からは遠く離れて堕落してしまった男の姿です。これがヨセフ物語の中に記されたことは、ヨセフの信仰と貞節を際立たせ、さらにイエスの家族史の汚れた一面を浮き彫りにするわけです。
つまり、マタイの福音書の最初に出てくるイエスの系図は、しばしばたいくつなリストに感じる人は多いでしょう。しかし、この箇所を記憶するなら、タマルによって生まれたペレツとゼラフの名(マタイ1:3)を系図の中に見つけ、そこに、ユダの容認し難い異教性と、罪深い策略的な女との関わりを思い起こすことができます。そして、神はエリートの家系ではなく、まさに罪深い家系の底辺に、ご自身の最愛の一人子、イエス・キリストを生まれさせたことを知り、驚かざるを得ないのです。実際この38章の意義は、救い主イエス・キリストの系図を明らかにしていることです。イエス・キリストはユダ族から出るのですが、そのユダ族がどのように子孫を残したかという記録です。ダビデを経てキリストにまで至るのは、こうしたわけありのペレツの家系があるのだ、というわけです。
私は思うのですが、神を信じることに背伸びは不要です。正直に生きてよいのです。罪責められるのであれば、素直に罪を告白し悔い改めることです。また自分の過去を嘆く必要もありません。自分の家柄や家系を卑下する必要もありません。たとえいかなる人生を歩んでこようとも、神は、それによって人を評価されることはありません。今まさに神にどう向かって生きているのか、その気持ちを大事にされるお方です。自己防衛の人生を生きたり、人に罪をなすりつけて攻撃したりするような人生からは解放されましょう。そこに本当の魂の安らぎがあるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「ヨセフが売られたイシュマエル人の商人は、他に何人と呼ばれることがありましたか?」答えはミディアン人でした。イシュマエル人は、遊牧民の総称ですが、ヨセフの物語ではミディアン人と同一視されています。では、今日の聖書クイズを一つ、イエス・キリストの系図の中に出てくる、もう一人の遊女の名は何でしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。
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