<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。イスラエルの民が、神を中心に、隊列を組み、秩序化されていく様子が見受けられるところです。私たちも、キリストのからだに連なり、互いの賜物と信仰をもって、神の栄光を現すための協調の歩みを意識すべきなのでしょう。それは私たちの個性がさらに生かされるためです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
2章は、1章の繰り返しでもあるようだが、それぞれの宿営の配置が追記されている。各部族がどのように会見の天幕の周囲に宿営すべきか、どのような順序で行軍すべきかが描かれる。
1.12部族の配置
以前は12部族の一つに数えられていたレビ族は別扱いとなっている。そしてヨセフが一つの部族と数えられていた代わりに、ヨセフの二人の息子、エフライムとマナセの家系が二つの部族に数えられている。こうして合わせて12部族になる。全部族は、それぞれ三部族からなる四つの分団に分けられ、部族長のもとに旗を掲げ、次のように配置された。東に、ユダ・イッサカル・ゼブルン、南に、ルベン・シメオン・ガド、西に、エフライム・マナセ・ベニヤミン、北に、ダン・ナフタリ・アシェルである。
2.レビ族の配置
レビ族は正面であるが、メラリ族、ケハテ族、ゲルション族、そして祭司の四つに分かれ、それぞれ四方に宿営した(17節)。つまり、メラリ族が北の正面、ケハテ族が南の正面、ゲルション族が西の正面、そして祭司(アロンの子ら)が東の正面である。彼らは、父祖の家の旗じるしのもとに宿営する(2節)、とあるように、部族ごとの旗が掲げられたようだが、残念なことにそれはどのようなものであるかはわかっていない。ただ、ユダヤ人の伝説によると、四つの旗は、エゼキエルの見た幻(エゼキエル1:10)の四つの生き物の顔を持ち、旗の色は大祭司の胸当てに嵌めこまれた十二部族の宝石の色であったとされる。つまりユダの旗は、赤めのう色の地に獅子の顔、ルベンの旗は赤紅色の地に人間の顔、エフライムの旗はすみれ色の地に牛の顔、ダンの旗は明るい黄色の地に鷲の顔というように。なお、会見の天幕と宿営の間は、距離が置かれたが、それはだいたい2000キュビト(890メートル)であったとされている(ヨシュア3:4)。行軍順位は、ユダが上位であり、ルベン、エフライム、ダンと続いたという。
3.主を中心とする秩序
それまで無秩序であったエジプト奴隷の集団が、幕屋を中心に宿営場所を定められ、「軍団」として組織化されていく。約束の地へ向かい、これを戦って勝ち取るための隊列が整えられていくのである。この光景はやがて、黙示録の21章に描かれた天国における、凱旋者たちのイメージにも使われている(7:4-8)。そして天国、十二部族の名がつけられた十二の門があり、主が中心に住まわれる四角形の新しい天と新しい地(黙示録21章)の秩序があるものとして描かれている。要するに、私たちもまた、無秩序な奴隷集団から、天国へ至る過程にあって、どこかで整然とした軍団として整えられて行くのだろう。
確かに神を知り、神に従うようになった後では、大きな生活変化がある。それは主を中心とする秩序を持つことだ。それまで日曜日は、疲れた身体を休め、自分の趣味に興じ、あるいは自己実現のために精を出し、自分自身のお楽しみを追及するものであったかもしれない。しかし、神に従うようになってからは、日曜日は、互いに主のもとに集まり、主の安息の日を守るようになる。時間の使い方も変わる。それまでは自分の意と欲の赴くままに、個々に使っていた時間を、神の御心と宣教の推進のために、互いに用い合っていくようになる。お金の使い方も、人間関係も同様に主のために再編されていく。
神を信じ従う人生は、神を中心とした整然とした秩序の中に新しく生きていくことに他ならない。これを意識できる者とそうでない者との信仰実践の差は大きい。やはり28年牧会をしてきながら思うことは、忠実に信仰生活、教会生活を守り、証を立てて、実を結んでいくクリスチャンとそうでなないクリスチャンの違いがある。自分の所在を定め、自分の旗印を明らかにして歩んでいるクリスチャンとそうではないクリスチャンの違いは歴然としている。
私たちの毎日の生活と仕事を、ありとあらゆる事柄は、神を中心に整えられているであろうか。というのも私たちの生活実践の多くは、依然として神ではなく、自分を中心にした個人プレーであることが多いからだ。神を中心に教会に集っているようでありながら、相変わらず烏合の衆であったりする。教会における自分の責任と役割を明らかにし、互いに力を尽くしながら主に従う歩みをさせていただこう。