13篇 恵みに寄り頼み続ける
<要約>
おはようございます。「粘り勝ち」ということばがありますがが、神に粘り続ける、それこそ、求められていることなのでしょう。神は善であり、よきものを拒まれない、神の誠実さに信頼し続ける、その点において、正しい者であることが何よりも大切なことと私は思います。もう、聖書通読一日一生を書き続けて20年、ゆっくり歩いて、長い巡礼の道の最後まで、共に歩き切りたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
- 背景
この詩篇、最初と最後では、作者の思いがまるで違う。何がこんな変化をもたらしたのか?不思議に思われるところがある。最初は満たされぬ思いと限界を意識した気持ちが吐露されている。しかし最後には、神に訴える中で、神に対する希望を抱き、神の救いを歌う気持ちになっている。
「いつまでですか」これが、ダビデの時代のいつのことであったのかはよくわかっていない。おそらくダビデが逃亡していた時のことではないか、と考えられているが、この時、ダビデは、一つは、孤独であった。神は私を忘れているのではないか、と思わされていた。ダビデは神の存在を否定しない。しかし、主が自分を気にかけておられることについて確信を持てないでいた。こんなに困っているのに、神は私のことを顧みてくださらない、苛立つ気持ちを押さえられないでいた(1節)。そして、堂々巡りの空しい思考。あれこれいくら考えても、何一つ先が見えてこない、行き詰まりの状況。何もまとまらず空回りして、空しく過ぎていく時間。待てば待つほどに、神の沈黙と闇は濃くなるばかり(2節)。その全ての結果としての悲しみ。ただただひたすら我慢するだけの思い(2節)。そして屈辱。敵のすることは、何もかもうまくいく、なぜか神は、自分ではない敵の味方になっているかのように、彼らの圧倒的勝利を思わされる辱め。(2節)。いつまでこんな状況が続くのか。耐えられない。確かにそんな状況はあることだろう。
2.神のあわれみにすがる
そこでダビデはどうしたのか?ダビデは、絶望のどん底の中で、なおも神に呼び求めている。打ちしおれた中で、敢えて声をあげて、神を呼び求め、叫び求める。「私に目を注ぎ、私に答えてください。」(3節)私が敵に打ち負かされて、先に死に、敵がほくそえむことのないようにしてください、と。自分の叫ばざるを得ない気持ちを素直に、神に言い表している。まさにただ神のあわれみに寄りすがるのみである。
教会が成長する鍵は祈りにある。もう古い文献になるのだろうが、パウロ・ヨンギ(Paul Yonngi Cho)がReaching Cities with Home Cells(Urban Mission, Nov.1984)という小著を書いている。自らの経験をもとに、韓国での教会成長の秘訣を書いているものであるが、日本語にはなっていないし、ヨンギについては、あまり評価しない人も多いので、たまたま手にしたものを読んでみただけなのであるが、印象的なことが書いてあった。つまり、自身の成功は祈りにあるが、祈りの体質が教会に育っていくまでは、大変な時間を要した、と。最初に祈り始めたのは、牧師と牧師の母の二人だけ、二人で、祈る時が何年も続いた。そしてようやく信徒が動き始め、共に祈るようになり、その祈りの輪の広がりの中で教会成長が起こったという。確かに「教会成長の秘訣は祈りである」と語る牧師は多いが、実際に「祈りにおいて格闘し、実を結ぶ祈りの群れを育て上げ、その重要性」を語る牧師は少ないかもしれない。
神の恵みにより頼むことがすべてである。なぜなら、神が「私に良くしてくださる」からである(6節)。英訳(NEB)では、「私の願いすべてを聞き入れてくださった」と訳されるが、それは、願いを聞くにとどまらず、それをはるかに超えて応えられることを意味する。リビングバイブル訳では「身にあまる祝福をいただき、心から主に歌います」とある。だから私たちは主に歌を歌わざるを得ない。
神は私たちに究極の解決方法を与えてくださった。神に祈り願い続けることである。いつまでですか、と思うことがあっても、今少しと粘って祈り続けることである。苦難を信仰と祈りによって解決する学びと訓練を私たちは必要としている。それが出来ていれば、全く打ちのめされた状況の中にあっても、私たちは平安と喜びを持つことができる。信仰の成熟は、普通の感覚では理解できない祝福をもたらす。神は奇蹟の神、天地創造の神である。無から有を生み出すお方である。生ける神に呼ばわろう。