55篇 思い煩いを委ねる
<要約>
おはようございます。私たちの人生には、突然降りかかる不幸というものがあるものです。突然足を救われるような状況にあって、どうすべきか、神の最善、神の解決に期待する他は無しということがあるものでしょう。神は愛であり、神は善であることを、どこまでも期待し、主の解決を待ち望みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
背景として、ダビデの議官アヒトフェルが、アブサロムの謀反に加担した時のことが考えられている(2サム15:12、31、16:23)。ここでダビデは、取り乱している。「私は悲嘆に暮れ、泣き叫んでいます」(2節)。我が子に裏切られ、命を狙われた心の痛みが綴られる。それは実に不意打ちであった。冷静に状況を判断する間もなく、死の恐怖、恐れと震え、戦慄が襲ってくるような出来事であった。「嵐と疾風を避けて、私の逃れ場に急ぎたい」(8節)。実にダビデは、足をすくわれる思いであったのだろう。何とかせねばと思いつつ、とうてい逃れられない、もはやその場で打ち倒され、息の根を止められそうな状況にあった、というわけだ。
2.ダビデの試み
そこで、ダビデは、必死に神に向かって叫んでいる。第一に、自分を追い詰めようとする策士どもが混乱させられるように。分裂するように。かつて神がバベルの塔を建てようとした者たちのことばを通じなくさせて混乱させたように、彼らが混乱し、散らされるように、と祈っている。そして、自分が心を打ち開いて語り合った友人の裏切りに、神が裁きをもって報いられるように、と祈っている。「死が、彼らをつかめばよい。彼らが生きたまま、よみに下るがよい」(15節)なんとも激しいことばである。こんな祈り方をしてはいけない、敵が滅びることを祈ってはいけない、普通はそう教えられるものではないか。だから、何かこんな祈りには、違和感を覚えるところだが、ダビデは窮地にあって祈り、叫んでいる。
ともあれ、ダビデは必至に祈った。「私が神を呼ぶと、主は私を救ってくださる」(16節)。確信を持って祈った。「夕べに朝に、また真昼に、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」(17節)。ダビデは執拗に祈った。というのも、この状況を打破するのは神以外にありえないからだ。万物の主である神だけが頼りの状況なのである。何の救いも期待できない状況で、ダビデはただひたすら祈った、というべきだろう。ダビデの祈りは率直で、感情を丸出しである。ただその結果、ダビデは、神の奇跡的な助けを即座に得るというのではなくて、神に重荷を委ねる心境を得ている。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(22節)。病み痛む心と辛い重荷を、主に差し出すことである。その結果、主は、人々が、アルキ人フィシャイの助言に耳を傾けるようにし、アヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ってくださったのである(2サムエル17:14)。
ペテロは、迫害下にあるキリスト者に語った。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(1ペテロ5:7)。人生に苦しみは多い。不意を衝く、恐怖や戦慄が襲うこともあるだろう。そして何でも心を打ち明け、語り合った友に裏切られる事もある。人間はわからないものである。そのような中で、神は正しい者に目を留められるのであるし、正しい者に対して致命的な危害が加えられることを許されない。神に重荷を委ねるならば、神が黙って見過ごされることも、正しい者が揺るがされるままにされることもなさらない。主に、ありのまま自らの心の内を打ち明け、主の解決に期待しよう。