エゼキエル書11章

11章 残される者の意味(11:1-13)

おはようございます。9章で中途半端に終わった預言が補完されて、いよいよ神のご計画が明らかになっていく章です。残される者は、神のいのちに繋がる者です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.鍋のたとえ(1-12節)

エゼキエルは、主の霊に連れられて、主の宮の東に面した東の門にいました。そこには25人の者がいたと言います。既に8章に「25人ばかりの人」がいたとありますが、どうやら、内容的には別のようです。ここでは、彼らの発言からしても、政治的な指導者たちです。彼らは言いました。「『当分、家を建てなくともよい。この都は鍋であり、われわれはその肉だ』と言っている。」(3節)言いたいことは、エルサレムを「鍋」とすれば自分たちはその中の「肉」で、どんな戦禍があってもその「防火鍋」によって守られる、ということです。さしずめ、エルサレムは不沈空母というわけでしょうか。しかし、神は、あなた方が考えているとおりにはならない、勘違いするな、エルサレムは例えるならば「防火鍋」なんかではなく「調理鍋」だ、と言うのです。神は後の24章で、この戯言を取り上げて、さらにはっきりとご自分の意思を明確にされます。「鍋を火にかけよ。…薪を増やし、火を燃え立たせ、肉をよく煮、香料を混ぜ、骨を焦がせ」また「鍋を空にして炭火にかけ、その銅を熱くして、その中の汚れを溶かし、さびがなくなるようにせよ」と(24:3-11)。バビロンの攻撃は、エルサレムを聖めるための神から出た業でした。

13節、ベナヤの子ベラテヤの死は、使徒5章のアナニヤの死に匹敵するものでしょう。神のことばは、脅しでもはったりでもなく、まことなのです。神のことばの確かさを知るエゼキエルは、恐れつつ、叫ばざるを得ませんでした。もしそうなら、一体誰が、神のその怒りの前に、生きながらえるのだろうか、残されるのだろうか、と(13節)。

2.彼らの神となる

そこで本章の後半は、もう一つの当時の民衆が格言的によく語ったことばを取り上げ、その疑問にも答えています。それは、9章で中途半端に終わっていた神のことばを足すもので、残される者について、神の考え方を明確にしています。

当時、バビロン捕囚の戦禍にあって、エルサレムに残された者は、既に捕虜となって連れ去られた人々を、神の呪いと裁きをまともに受けた人々、結果神に与えられた所有の地を失ったと考えていました。彼らは主から遠く離された者たちなので、そのまま「主から遠く離れ」ていよ、この地はまさに「残された者」私たちのものだ、と揶揄したわけです(15節)。神はそのふざけた言葉を取り上げて、そうではない、逆だ、彼らこそ残された者たちだ、と言います。実際彼らは主から遠く離されておらず、神は連れ去られた地で、彼らと共にいた、と(16節)。そしていずれ彼らを呼び戻されてイスラエルの地を受け継ぐだろうと言うのです(17節)。

そして実のところ、戦禍を免れたか否か、連れ去られたかエルサレムに残ったか、そういう問題ではないのだ、というのが、19節以降のお話でしょう。「残される者」は、全く霊的な意味で、それはどこにあっても霊的に神に繋がって与えられた時代を生き延びていく者たちのことを言っています。今日も同じことが言えます。災いに遭ったか遭わなかったか、物質的な祝福に与っているか否か、そんなことで人を判断してはいけません。残された者のしるしは、目に見えない部分で神を喜び、その支配に生きているかどうかです。神によって「石の心」ではない「肉の心」を与えていただいているかどうかです(19節)。災いの時代において覚えたいことは、表面的な出来事に惑わされないこと、そして、義といのちを与えられる神に繋がる意味で残される者となることです。イエスも場所ではなく、御霊と真理をもって礼拝する者であることの大切さを教えられました(ヨハネ4:20)。