12章 主であることを知る
おはようございます。今時代は大きく変化しようとしているように感じます。しかしそれが主の御手によるもの、主であることを知るしるしがそこにあると心得たいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.主であることを知るしるし
幻、象徴動作、直接的な言葉によるメッセージという流れで、預言が繰り返されています。先に、粘土板にエルサレムを描きそれを包囲したり、乏しい食糧を量って食べたりと、包囲、捕囚、飢饉などを預言してきたエゼキエルは、ここで再びバビロン捕囚の危機について預言します。それらは神のなさることだと、はっきりわかるだろう、と。
一つは、壁に穴を開け、こそこそ町を逃げ出す事態に注目せよ、と(5節)。既にエゼキエルはバビロンにいました。ですから、バビロン風の日干し煉瓦の建物に穴を開け出て行く行動預言は、実際には大変難儀なものであったと言えます。しかし、そうであればこそ、バビロン軍に包囲された町から逃げ出す困難さが語られるものでした。実際エゼキエルは、ゼデキヤ王がエルサレムから逃げだそうとして失敗することを預言します(10節)。彼の脱出失敗は、彼の要領の悪さや思慮の足りなさによるのではなく、神によるのです。それは「しるし」である、つまり、神がこれに関わっていることを示すためでした。
同じように第二のしるしは、食糧難です(18節)。飲み食いという日常生活に恐れが伴う事態が生じる、その時、すべての事態を掌握している主を知ることになるだろう、と言います。以前、エルサレムで、バビロン軍に包囲された時に使われていたとされる便器の調査結果について聞いたことがあります。付着物を分析した結果、どうやら生肉を食べていた、つまり籠城戦によって調理用の燃料がなくなり、非常に劣悪な食糧事情があったと言うのです。既に、人の糞で調理する事態が生じることが預言されていますが(4:12)、ここで再び、エルサレムの日常性が脅かされる恐怖が語られているのです。
そして第三のしるしは、こうしてエルサレムが占領され、破壊され、町が廃墟となる、ことです。それは、神の民がレビ記26:31-35、申命記28:51、29:23であらかじめ警告されていた主のさばきであり、その成就でした。これらが起こる時に、あなたがたは契約を思い起こし、「わたしが主であることを知る」と言うわけです。大切なのは歴史的な出来事の一つ一つに、主の御手が働いていることを謙虚に認めていくことなのでしょう。
2.時は延ばされない
しかし当時の人々は、そのようなしるしに注意することもなく、エゼキエルの預言を嘲っていました。彼らは言いました「日は延ばされ、すべての幻は消え失せる」(22節)。エゼキエルが預言するようなことは起こりえない、と。また人々は「彼が見ている幻はずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言しているのだ」(27節)と言いました。つまり一応エゼキエルの言い分は認めるが、自分たちの時代には関係のないことだ、と。そこで神は言います。いずれの反応も間違っている、「もはや時は延ばされることはない、必ず実現する」と(23、28節)。
ここに注意すべく教訓があります。キリスト者は終末思想に生きています。イエスの再臨を信じる者です。しかしそれは、起こらないものであるかのように、また、今の時代には関係のないものであるかのように思われているのではないでしょうか。常識的判断を持ちつつも、主の再臨に対する切迫感を持った信仰に生きる人は少ないものでしょう。使徒ペテロは「主は、約束したことを遅らせているのではなく、忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです(2ペテロ3:9)」と言います。神の救いの計画の完成はもう間近である、と時のしるしを見逃すことのない、霊的な熱意の中に今日も歩ませていただきましょう。