32章 ファラオのための哀歌(32:1-16)
おはようございます。「剣で刺殺された者」「無割礼の者」という繰り返しの言い回しに注目しましょう。それによって神の裁きが求めているものがわかります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.いよいよ現実感増すエジプトへの預言
「第12年の12の月の1日」、つまりBC586年3月、ちょうどエルサレムが陥落したことが報じられて二か月後のことです(33:21)。バビロンによって滅ぼされたエジプトに対する哀歌が歌われました。エジプトは、大海の巨獣のようだ、と言います(2節)。その権力を誇り、この世界を我がものにしている、そんなエジプトが、神の網に捕らえられ、捕獲され、痛めつけられて死に絶えることが預言されています。
この哀歌は2年前に語られた預言(29:1-16)と似ていますが、単なる繰り返しではありません。というのも、語られた状況はまるで違うからです。かつての預言されたことがすべて現実化し、イスラエルの民は、エゼキエルの語ることが確かに神のからの預言であることを思わざるを得ず、この哀歌に恐れをもって耳を傾けていたのです。まさに「あなたが崩れ落ちる日に、彼らはみな自分のいのちを思い、その震えは止まらない」という状況でした(10節)。当時のエジプトの繁栄の姿を見ながら、誰がその滅びを予測しえたことでしょうか。そのような意味では、現代もそれぞれ危うい状況にあるのかもしれません。天地創造のまことの神を認めようとしない国々、自分たちの造り主を認めて、その神の前に遜ろうとしない国々が、いつまで神に背を向けながら、繁栄を持続できるのか。国が神を認めていくというのは、神がかり的、宗教的な国になることではないでしょう。それは、目に見えない価値を大事にしていく、ということです。ですから、聖書の神が愛であり、義であり、聖であるとしたら、そのような価値に背を向け、物質主義に走る国々が滅びていくのも当然のことと言えます。神の裁きは、人の応答に基づくものなのです。
2.よみで慰められる
17節、エジプトへの哀歌が語られた15日後、エジプトの滅亡が預言されています。新改訳2017では、「その月の15日」と訳が修正されています。第三版では「第一の月」と訳されていました。ヘブル語原文に「第一の月」という記述はありません。おそらく第三版では、ヘブル語のギリシャ語訳である70人訳の解釈を取って、付け加えたのでしょう。今回は、ヘブル語の原文通りに修正されたようで「第12の月」(BC585年3月)と理解すべきところです。ともあれ、これはエジプトに対するさばきの預言の7番目にして、最後のものです。エジプトは、よみにくだり、他の滅亡した国々とそこで一緒になる、と言います。「アッシリヤとその全集団」(22節)、「エラム」(24節)「メシュクとトバル」(26節)、「エドム」(29節)、「シドン」(30節)と滅びた弱小国と一緒になるのです。かつては歯牙にもかけなかった弱小国と同じ運命を辿るとは、実に不名誉な結果である(30節)。しかし、それはよみにくだったのが自分たちだけではない、という一抹の安堵を与える、と言います。よみは、苦しめられるところ、その深みで「慰められる」(31節)とは理解し難いことですが、皮肉的な修辞表現と理解すべきところでしょう。
ともあれ、繰り返し読むと目につくのは、「剣で刺殺された者」「無割礼の者」という言い回しの繰り返しです。剣は破壊的な裁きを象徴します。また無割礼の者は、神を認めない者たち、神の側に立とうとしなかった者たちを意味するでしょう。神を認めず、神に裁かれた者たちの運命が語られているのです。私は、神を認め、神を信じることの意義は、やはり目に見えない価値を大事にすることにあると考えています。愛、義、聖といった、大事にしなければ人の社会が成り立たない価値を守り抜く、そのような心のある者は、やはりその起源が神にあることを聖書から知っていただきたいと思うのです。