36章 イスラエル再建の預言
おはようございます。エゼキエルはイスラエル回復のメッセージを語り始めます。しかしそれは単純な国の再建ではなく、神の御名を証しする国の再建です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.イスラエルの回復
1-7節は、昨日の続き、イスラエルの苦難につけ込んだ敵、エドムに対する報復宣言です。イスラエルに加えられた侮辱は、そのまま彼らに向けられる、と言います。それは、イスラエルは「わたしの国(5節)」だからです。イスラエルを侮辱することは神を侮辱することでした。神はイスラエルをその罪の故に罰せられましたが、神とイスラエルは一心同体であって、そこに、他人が首を突っ込んで揶揄したり、手をあげたりすることは許されなかったのです。あなたには関係ないでしょ!ということです。
ですから神は、イスラエルが自分自身のかけがえのない存在であることを思い、その奇跡的な回復を約束されます。実際には、バビロン捕囚からの帰還のことを語っています。廃墟と化したイスラエルの町々が建て直され、再び人が住めるようになって、土地が耕され、実を結ぶようになる(11節)と神は約束するのです。実に素晴らしい約束です。
しかし、それがどのように実現したのかに注目すべきでしょう。その記録となるネヘミヤ記とエズラ記を読むなら、それは、決して一朝一夕の回復ではありませんでした。それこそ、忍耐をもって、大きな苦難を乗り越えていく回復でした。実際、帰還を許されたイスラエル人は、様々な障壁に直面しました。まず彼らは、「わたしは町々を人が住めるところとし、廃墟は建て直される」(33節)と約束されましたが、彼らは「荷を担ぐ者の力は弱り、瓦礫は山をなしている。城壁を築き直すことなど、私たちにできはしない」(ネヘミヤ4:10)と涙が出てくるようなことだったのです。また、彼らはその再建の努力を執拗に妨害されました。指導者のネヘミヤは「ああ、今、どうか私を力づけてください」(ネヘミヤ6:9)とただ神に寄り縋る他なかったのです。種々の経済的な問題、人間的な衝突、神の約束の実現を見るために彼らが辿った道は、平坦な安易な道ではありませんでした。
回復を約束されることと、約束された回復を現実のものにすることは別物です。約束が語られたら、後は天からそれが降ってくるのを待っていればよい、というものではありません。神の約束を信じ、それこそ全力を尽くして前に進み続けるのみなのです。志を同じくする者と共に、互いに声を掛け合い、支え合い、祈り合い、自分のマウンドに戻って一球入魂の勝負をするのです。そうであればこそ、神の約束された奇蹟も生じるのです。
2.あなたがたのためではない
さて神は、単純にイスラエルの物質的な回復、世俗的な国の再建を語っているのではありません。神が語ろうとしているのは、礼拝の民の回復です。神が選ばれた民であり国であるというのに、他国と同じように偶像崇拝の民となってしまったイスラエルが、神の民として回復されることです。彼らに着せられた汚名は、「戦争に弱い民」ではなく、「主の民なのに、主の国から出された」ということでした(20節)。神は繰り返します。「わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなた方が行った国々の間であなたがたが汚したわたしの聖なる名のためである(22節、32節)。神は自分の評判を回復するために、まことに正しい神が世におられることを知らせるために、イスラエルを回復させるのです。
ですから、イスラエルの再建は、まことの神を認め、まことの神に心を向ける者によってなされるのです(26節)。過去の自分を心から恥じて、偶像礼拝を好む肉の心を捨て去った人々、神の新しいいのちを喜び、そのいのちに生きようとする人々によって再建されるのです(32節)。それは確かに、エズラ、ネヘミヤ記に見るように、戦争復興を超えた、神の名を証しする神の都の復興でした。教会もその目的を達成したいところです。