43章 戻られる神、祭壇の火入れ
おはようございます。新しい神殿に、神が帰って来られる、神殿の幻のクライマックスです。初心に戻り、改めて神のことばに素直に心を開きたいと思うところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神の栄光が戻ってくる
神殿の全容が明らかにされた後、エゼキエルは、再び正門である東向きの門に連れていかれました(1節)。するとかつてケバル川のほとりで見た幻のようなものを再び、目撃したと言います。すでにこの間約20年の月日が経っていました(40:1)。エゼキエル書もまた一気に書き下ろされたわけではないのです。時間をかけて、少しずつ明かされた神の啓示を書きため編集されたものです。これほど神の啓示が、ゆっくり示されていくとするなら、どれほど聖書にへばりつかなければならないことか。私も、20年近く聖書通読ブログを書き続けながら、サイクルを繰り返すたびに見えてきた部分があります。
ともあれその幻は、かつて立ち去った神が、再び神殿に戻って来たことを意味していました。主の栄光が神殿を離れたのは、主の裁きそのものであり、その帰還は主の恵みを示しています。そして、新しい神殿が再び神の住まいとされることによって、その神殿が聖別されるべきことが告げられます(7節)。そこで淫行を行ってはならない。つまりは、偶像礼拝と宗教的姦淫を行ってはならない、ということで、その境内に王たちを葬ってはならない、とされます。そこは、「最も神聖である」(12節)、つまり聖と俗を区別せよ、ということです。
ただし、大切なのは、教会を聖なる場としてくださるのは、主ご自身である、ということでしょう(36:25-28、37:23)。私たちの努力は、せいぜいパリサイ的な努力であって、互いの監視を強め、教会をぎすぎすしたものにする程度です。また自分の力ではなく、神の力が現わされるべきは、教会を構成する自分自身です。この自分自身が聖霊の宮なのですから。主がみことばによって我が魂を癒し(ヨハネ17:17)、聖めてくださるように、と、それぞれ、自分自身に神の力が現わされるように、願い、祈らなくてはならないのです。
2.祭壇の火入れ
11節以降は、主の栄光が戻られた神殿での活動を、どのように再スタートすべきかを教えます。重要なのは祭壇です。祭壇は、石造りで、土台の上に2つの台座、その上に炉と三層の正方形の造りになっていました。その正方形は上に上るにつれて、一辺が16キュビト、14キュビト、12キュビトと小さくなりジグラット構造になっています。高さは、全部で10キュビト、約5メートルですから、かなりの大きいものですが、ソロモンが造った祭壇と同じ高さです(2歴代4:1)。祭壇の炉までは東に面した階段を上って行きます。それを上る者は、主の栄光の臨在のある本堂の正面に向かうことになります。
このように造られた祭壇をまず聖別しなくてはなりません(18-27)。それは献身を象徴する「全焼のささげ物」、そして、無意識に犯された罪のきよめを象徴する「罪のきよめのささげ物」をささげることで、7日かけてこれを行うとされます。祭壇の火入れ式は、五種類ある捧げものの内、二つ「全焼のささげ物」と「罪のきよめのささげ物」をささげることでした。こうして祭壇を使う準備ができ、「わたしはあなたがたを受け入れる」(27節)と神は語られます。大切な点です。神に聖別され、受けいれられるためには、神の方法に従うことです。つまり神がこうして欲しいのだ、ということに気を使わなくてはなりません。祈り一つにしても、弟子たちが主の手ほどきを求めたように、神の方法に聞くのが信仰生活というものです。自分流を捨てて、教えられやすい心を持つことです。礼拝のあり方、教会の奉仕の在り方、献金の献げ方、教会の人間関係の取り方、改めて聖書から教えられたいところでしょう。教会が命を吹き返すとしたら、「まず塊より始めよ」なのです。