エレミヤ書48章

48章 モアブに対する裁き

おはようございます。エジプト、ペリシテ、そしてモアブに対するメッセージです。長い裁きのメッセージの中に、神を父とすべき信仰的な態度が教えられます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.モアブへの裁き

エジプト、ペリシテに続き、48章はモアブに対する裁きのメッセージです。モアブは、民族的には、アブラハムの甥ロトの子孫ですから(創世記19:37)、イスラエルとは親族関係にあります。ダビデの家系に加えられたルツもこの民族の出身です。しかしモアブとイスラエルの関係はそれほど友好的ではありませんでした。イスラエルの出エジプト後、ルベン族が、その土地を自分たちのものと主張して以来、イスラエルとモアブは戦い続けました。エホヤキムの時代、モアブはバビロンと同盟し、ユダ南王国を略奪しています。モアブの滅亡は、既にアモス(2:1-3)やイザヤ(15、16章)によって預言されていましたが、エレミヤの時代までそれは実現していなかったのです。

エレミヤが語る裁きのことばは、だらだらと長い印象があります。これまでのモアブとイスラエルのつながりの深さから来るものと思われますが、何が語られているのか、理性を働かせて押さえておきたいところです。

2.神の裁きの理由

まず神が裁きを下される理由に注目すべきです。一つは、「自分が造ったものと財宝に寄り頼むこと」つまり天地創造の神を認めず、自分の力に頼って生きることでした。そして、「ケモシュ」という偶像崇拝もあげられます(13節)。ケモシュはモアブの守護神、戦いの神として礼拝され(士師11:24)、全焼のいけにえとして子どもがささげられることがありました(2列王3:27)。イスラエルには、ソロモン王の時代に導入され(1列王11:7)、ヨシヤ王の時代まで存続し、影響を与えました(2列王23:13)。それは実に忌まわしい信仰で、滅ぼされるべきものであるというわけです。さらにモアブの高ぶりがありました(29節)。結局自分の力に頼る者は、その力を認められれば高慢になり、人が、いのちを初め、すべて与えられて生きているに過ぎない現実を忘れ、謙虚さを失ってしまうものでしょう。そのように高ぶる者は、神あっての人間である現実を思い知らされることになるのです。

3.神の愛の中に生きる

ただ昨日も申したように神は、悟り得ない人間に、冷徹に裁きの鉄槌を下されるようなお方ではありません。「私はモアブのために泣き叫び、モアブ全体のために叫ぶ。人々はキル・へレスの人々のために嘆く」。エレミヤのメッセージは、イザヤの繰り返しです。ただ、イザヤの方が「わたしの内臓はキル・へレスのために、竪琴のようにわななく(イザヤ16:11)」より印象的で、神の心の動きを感じさせてくれます。人は広大な宇宙にポツンと生み落とされて、当てもなくもがきながら生きるように定められた者ではありません。神を父として愛し、神の愛に守られて、神の御心を巡らしつつ生きる者なのです。