エレミヤ書46章

46章 押し流された神

おはようございます。46章以降は、本来25章に続く預言集で、他の国々に対する神のことばです。裁きの中で悟り、神を信頼することを、繰り返し語っています。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.カルケミシュの戦いについての預言

ヘブル語聖書をギリシャ語に翻訳したと言われる70人訳聖書では、25章にこの章以降の記事が挿入されています。つまりこの章は、エレミヤの預言集の補足部分なのです。そしてエジプト、モアブ、アンモン、とイスラエル以外の国に対する神のことばを伝えています。2節によるとこれは歴史上名高いカルケミシュの戦いについての預言です。この時エジプト軍は、バビロンに大敗を帰したのでした(後半13節以降)。

聖書はイスラエルの歴史を中心に描いていますが、それは、イスラエルが、神に選ばれた民であり、この選ばれた民をとおして、神ご自身の全世界に対する救いの計画が知らされるためです。つまり神はイスラエルだけの神ではありません。神の救いの計画は全世界に向けられたもので、神は全世界の民を愛しておられる天地万物の創造主なのです。そこで当然、イスラエル以外の国々にも神のみこころが語られることになります。

エレミヤは、バビロン軍に向かって突進するエジプト軍の力強さを、氾濫するナイル川にたとえています(8節)。しかし、神はそれを「かわいい雌の子牛」に過ぎないとします(20節)。興味深いのは、「雌牛(20節)」と「雄牛(15節)」でしょう。70人訳聖書では「押し流される」と訳されたヘブル語のニスハフを、ナス・ハフと分けて読み、「なぜハフ(雄牛神アピス)は退いたのか」と訳しています。つまり、雌の子牛を置き去りにして押し流された雄牛とは、エジプトの雄牛神アピスを指すと解釈し、訳出しているのです。古代近東の考えでは、一国の征服は必然的にその守護神を打ち破ることになりました。ですからここは、エジプトが拠り頼んだ神の無力さとその敗北を風刺しているというわけです。

2.神の愛に留まる

エジプトもバビロンに破られましたが、それはイスラエル同様に悔い改めを求めるための神の懲らしめでした。神ならざるものを求め、信頼し頼る人間に対し、まことの神の存在を教えるためでした。人は、起こった災禍に仰天し、これから逃れようとします。しかしそれが神の裁きであるなら、どうして神の追跡を逃れることができるものでしょう。神の目にごまかしは効かないのです。だから災禍にあっては素直に、その背後にある神を認め、神の前に遜ることが大切です。「懲らしめ」「罰せずにおくことはない」神は、「滅ぼしつくすことはない」神だからです(28節)。裁きの神は、同時に赦しの神であることを信じて、神の裁きの中に留まれば、神はその人の信頼を喜び、罪を赦し、大いなる恵みをもって包んでくださることでしょう。神の懐に飛び込んでみるのです。自らが不運にあると思う時、それが神の裁きかもしれぬと思う時、静かに座し、その裁き主を呼び求めるべきでしょう。そして悔い改めるべきことを悔い改め、主のあわれみを乞うことです。神は、ご自身に信頼する者を拒むことはありません。そのように信じて、未来に希望を持ちたいものです。