47章 ペリシテに対する預言
おはようございます。イスラエル近隣諸国への預言が続きます。神の裁きに対するエレミヤの思いがほとばしり出る場面です。神の裁きを正しく洞察する力が与えられるように、今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ペリシテの滅亡
ペリシテに対する預言です。ペリシテ人は、ヤフォとガザの間、今日ガザ地区と呼ぶあたりの、地中海沿岸平野に住み着いていた民族です。パレスチナという名前は、このペリシテということばから来ています。
エレミヤは、ペリシテ人に、バビロンの侵略について預言します。表題には、「ファラオがガザを討つ前に」とあり、これがいつであったのかが問題です。ネブカドネツァルがガザを攻撃したのは、おそらくBC604年の春と考えられています。その時、ペリシテはエジプトに援軍を求めました。しかしエジプトはこれに対応できず、ファラオが体制を整えてネブカドネツァルに対抗してガザを取り戻したのは、その後のBC601年のことでした。「ファラオがガザを討つ前に」というのは、この時の事情を語っているのでしょう。
バビロンは「北から上って来る水」にたとえられ(3節)、ツロとシドン、つまりフェニキヤからの援軍もペリシテを救うことができないと言います(4節)。「カフトル」は、地中海沿岸近くにある「クレテ島」のことで、もともとペリシテ人はそこからやってきたと考えられています。つまり、彼らの根城までことごとく、バビロンに攻撃される、ということです。ガザは「頭をそられた」これは詩的表現で、嘆きを象徴します。ガザの北にあるアシュケロンの町も廃墟にされると。ペリシテの町々が、バビロンによってことごとく壊滅状態に追いやられる絶望的な状況が語られます。
2.エレミヤの祈り
そこにエレミヤのことば、祈りが挿入されるのです。「ああ。主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め」(6節)。エレミヤは「北から上って来る水」を「主の剣」と言い換えました。悲惨な歴史的な事件を、単なる帝国主義の侵略戦争ではなく、神の怒りの裁きであると言うのです。しかし、それが神の義の実現と呼ぶには、あまりにも痛ましく悲惨で「主よ、あなたの御手を止めてください」と心から叫ばざるを得ない現実もあるのです。毎年8月、日本の敗戦を思う月がやって来るたびに、これを神の義の実現というよりも、まずその痛ましさを深く思う人もいることでしょう。震災や疫病を神の裁きと語る聖書の預言者たちに不快な思いを抱く人も多いことでしょう。しかしエレミヤもそれはまさに同感であったのです。荒々しい侵略戦争の真っただ中にあって、エレミヤも断腸の思いでその惨状を受け止めていたのです。ただエレミヤは、誰よりも神の実在、神の義とその愛をも深く知る人でもありました。神は全く血も涙もないようなお方ではなく、神は裁きを実行しつつ、悔いる思いを持つ情に厚いお方であることもわかっていました(42:10)。理性を働かせ、物事を正しく洞察し、神がお創りになった世界で生きていることを覚えたいものです。聖書は残された者への指針を与えているのです。