10章 主が祝福の源となる
おはようございます。新しい年もよろしくお願いいたします。昨年に続いて、ゼカリヤ書ですが、なんと、実に新しい年の初めに相応しい内容、時宜にかなった神のことばに感謝です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.主に雨を求めよ
ゼカリヤは「主に雨を求めよ、後の雨の時に(1節)」と語り掛けます。後の雨とは、「春の雨」のことで、イスラエルではちょうど穀物の穂を実らせる、収穫のための雨とされています(日本は秋に収穫、イスラエルは春に収穫です)。それは、率直に豊かな収穫を求めさせているものです。既に神は、「穀物は若い男たちを、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる」(9:17)と約束しましたが、捕囚から帰ってきた神の民が、エルサレムの地で実際にその現実を求め、手にしていくように勧めているのです。
続いて2節、これは過去を振り返って語っていることなのでしょう。あなたがたは、テラフィムを使い、占い、偶像崇拝に陥り、道を迷ってしまった。だから神の怒りが支配者たち、宗教家たちに下された。しかしそれはもう過去のことだ。豊穣をもたらすのはバアル神ではない、主ご自身である。人間の計画や努力によるものでもない、主の恵みによる。新しい人生を求めよ、主にこそ雨を求めよ、というわけです。
そして、主は重ねて約束します「彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる(6節)」。神はこれからの祝福のために過去を忘れてくださる、と言うのです。愛は人のした悪を思わず、まさに、神は、もはや何事もなかったかのように、私たちの人生に向かい合ってくださるのです。そのような意味では、この新しい年の初めに、まず神の前に思うことがあるならば、罪の告白をし、赦していただくこととしましょう。そして、赦しを受けて、今年は前を向き、先へ先へと進むことです。後ろを振り返るな!です。既に先に進んでいる神を見失わないように、祝福の道を進まれる神についてまいりましょう。
2.主の贖いに基づく
そして、神がそのように、私たちを取り扱う根拠を明確に心に留め、今ここでその喜びを確認しましょう。4節は、色々と議論のあるところですが、私はメシヤ預言的に解釈してこそ、意味のある個所と思います。「かしら石」はイエスのことであると。ですから、9章以降、メシヤに関する示唆が、脈打つかのように、語られるのであり、なぜ「捨てられなかった者のようになる」かと言えば、それは「贖ったからだ」(8節)、つまり、イエスの十字架による罪の赦しがなされるからだというところに繋がるわけです。捕囚の民に対するメッセージの中に、ずっとメシヤ預言的な要素が重ねて語られているわけです。
「曲がったものはもはや真っ直ぐにはならない」これは一つの真理でしょう。私たちが罪を犯せばその結果はついて回るものです。神は御忘れになると語ったとしても世間は忘れないものであったりします。しかし、それは私たちの戒めのため、教訓のため、目指す神の国のビジョンから目をそらさぬためです。痛みや反省があればこそ、目標もそれに向かう歩みも現実的、堅実的なものとなるのです。新しい年、まさに「主の名によって歩き続け」ましょう。そして、「主にあって大いに楽しむ」一年を歩ませていただきましょう。