ゼカリヤ書9章

ゼカリヤ書9章 きらめく王冠の宝石とされる

おはようございます。今年1年も今日で終わりです。ここまで一緒に聖書通読を続けて来られた方々、感謝申し上げます。どうぞ来年もよろしくお願いいたします。また、今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.主の宣告

9章からゼカリヤ書は後半に入ります。8章までは第二神殿が完成する時までの預言、9章からはその後の預言です。1節、新改訳第三版では「主の目は人に向けられ」でしたが、2017ではヘブル語原文どおりに「主に向けられるのは、人々の、そしてイスラエルの全部族の目」と修正されました。主語の変化は大きいように感じます。ただヘブル語原文の注釈は「主の目」を「アラムの町々」と読み替える提案をしており、それ以上のことは言っていません。文語訳も含め、第三版の訳が出て来た理由は、どうやら「主に」と訳された前置詞ラメドの解釈をめぐる議論からのようです。原文の直訳で読めば、人々が苦難にあって主に目を向ける程度を意味しますが、注釈の提案どおり、もしくは前置詞の解釈を根拠に主語を入れ替えて読むなら、主の目が、ハデラク(シリヤ)、アラム(1、2節)、ツロ(3、4節)、ペリシテ(5-8節)といったイスラエル周辺諸国のみならず、イスラエル(8節)にも向けられていることを語っています。このような読み替えは、全人類に対する救いを語る9節以降のメシヤ預言との絡みを考えると捨てがたいものがあります。

2.メシヤ預言

つまり使徒マタイは、9節を自身の福音書に引用し、イエスのエルサレム入場こそ、まさにこの預言の成就であるとしました(マタイ21:5)。この箇所は、当時の読者のみならず、現代の読者に語り掛ける二重預言的性格を持つものなのです。

そこでこの箇所をイエスに当てはめると、確かによく理解できます。イエスは正しい方で、汚れのない方でした。柔和で、横暴な征服者とは異なるお方でした。ですから意気盛んな軍馬ではなく、おとなしい、平和を愛する人の乗り物である子ろばに乗って登場したのです。しかもイエスは、当時のローマ帝国の圧政下にあるイスラエルを救う政治的な解放者とはなりませんでした。彼はイスラエルという限定された国の解放者ではなく、全世界の霊的な解放者となったのです(10節)。

しばしば戦争に負けた捕虜は、「水のない穴」に置き去られ、死と直面する他ありませんでしたが、神は、そのような捕虜を「水のない穴から解き放つ」とされます(11節)。人生において敗れたルーザーだ、と思わされるような状況に置かれることはあるものでしょう。そして、バツ印のついた人生を取り戻すように助けてくれる奇特な人などそうそういないものです。けれども、人などどうでもよいでしょう。あなたの「(損失の)二倍のものを返す(12節)」と約束する神がおられるのです。主の目はもはや当時の地理的な広がりのみならず、歴史的な広がりをもって、今なお私たちにも注がれているのです。しかも神のその熱い思いは「契約の血」に根拠を置くものです。ここでの契約は、ヘブルの著者が解釈したようにイエスの血による契約です(ヘブル10:29、13:20)。あなたに主の目が注がれ、あなたに救い主イエスを送られたことを覚えて、大いに喜び、期待しつつ新年を迎えましょう。