7章 断食に相応しい生活実践
おはようございます。礼拝をなんのために行っているのか。習慣的、儀礼的なものがある一方で、熱心ではあるものの自己満足的なものもあるでしょう。本質をよく考えたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.断食論争
幻は先の6章までです。この章からは、直接的なエピソードによるメッセージとなっています。ベテルという人物が、断食についてゼカリヤに質問を寄せたというのです。神殿が再建されたなら、捕囚の時代に始まった断食(2列王25:8)、つまりエルサレム破壊を覚え、戒めとするそれを守り続ける必要があるものか、というわけです。彼らの意図は、自分たちに求められる義務的な聖日の数を減らすことでした(8:19)
ちなみに、第四の月の断食は、町の城壁が破られた日(エレミヤ39:2)、第七の月のそれはゲダリヤの殺害を(2列王25:25、エレミヤ41:1)、第十の月は、ネブカデネザルの町の包囲の開始(2列王25:1-2、エレミヤ39:1)を記念するもので、こうした特別な日は60年間以上にわたって聖日として守られてきたのです。
果たして、神からの回答は、断食の意義そのものを問いかけるものでした(5節)。その定められた断食は、神のためと言うが、実際には、自分たちのためだったのではないか。独りよがりで、自己満足のためのものだったのではないか、ということです。実際、第五の月の断食は、かつて神のみこころに逆らったことを悲しむために、自分たちが罪深く愚かであったことを深く悔い改めるために行われてこそ、意味のある断食です。しかし、実際には、自己憐憫に浸るだけの霊性の低いものであったのです。
2.断食と日々の生活
ですから8節、神は、言葉を足して言うのです。断食(宗教儀式)をする、しないの問題ではなく、「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな。互いに対して心の中で悪を企むな」(9節)つまり、断食をするなら、その精神を日々の日常に映し出すべきだ、ということでしょう。特別に時間を取って、悔い改めを深く行うのなら、その悔い改めの実を日々の生活の中に結ぶことなのだ、というわけです。
信仰は、ある特別な行為を大事するというよりも、私たちの日々の、一瞬一瞬の生活実践そのものが大事なのです。しかし、人の現実は、そうはではなかったりするものです。そしてその結果、かつてのイスラエルのように、心を金剛石のように頑なにし、逆に神に反逆的になってしまうのです。
コロナ禍にあって、信仰、教会、礼拝、聖餐、宣教、といった一つ一つの意義、本質を深く考えさせられた人は少なくないでしょう。ある方は、神への礼拝ではなく、自己満足的なプログラムによって自分を楽しませるための礼拝、また神のための宣教ではなく、社会で果たせぬ自己実現のために宣教をしている現実に気づかされたと言います。正直な人であると思います。このような時にこそ、物事の本質を考え、改めるべきを改め、神に造られた者として、神のみこころにかなう歩みに立たせていただきたいところです。