おはようございます。ゼパニヤ書に入りました。聖書を読みながら、神と心を交わしていく、そこに私たちの心を集中させたいものです。信仰の道を日々、前進できるように。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ゼパニヤ書の背景
1節の系図をそのまま受け止めるなら、ゼパニヤは、王族の出身、ヒゼキヤの曾々孫となり、ヨシヤ王とは血縁関係にあると言えるでしょう。イザヤやミカといった預言者たちの声が途絶えて久しく、ユダ南王国は、道徳的、宗教的にも益々堕落の一途を辿る状況でした(2歴代誌33:1-11)。マナセ王のそのような悪政の(696-642年)時代の後を継いで、ヨシヤ王は改革者として登場し、ゼパニヤはその働きを助ける若き預言者として登場しました。実際、ゼパニヤは、ユダ南王国を舞台とし、エレミヤ、ハバクク、オバデヤそしてエゼキエルの預言活動に先鞭をつける働きをしたのです。
ところで、ヨシヤの治世は、BC639-609年で、改革が始まったのはBC621年の「律法の書の発見」(2列王22:3)からです。この書は、初めに人類全般に向けて(2-3節)、そして次に、ユダ南王国に住む者たちに向けて裁きを語っています(4-9節)。ヨシヤの改革後、バアル礼拝が消滅したとすれば、この書はその改革前に書かれたと言えるでしょう。しかし、50年におよぶマナセ時代の悪政の影響は根強く、ヨシヤの死後、すぐに復活したことからすれば、改革後に、改革を徹底させるために書かれたとも考えられます。この書はヨシヤの治世に書かれたことは間違いないのですが、それがピンポイントでいつなのかは、判断が難しいところです。
2.主の裁きのことば
さて7節から、主の日の裁きが預言されます。それは、初め支配階級の人々に向けて語られています(8節)。主がほふる獣というのは、ユダのことでしょう。神がユダを裁くその日、神は、「外国の服をまとった者」つまり、神の律法への忠誠を忘れ異国化、異教化した支配者階級をすべて裁く、というわけです。これは、宗教的な逸脱への裁きを伝えています。続いて、エルサレムの町に住む経済的な有力者と商人に対する裁きが告げられます(10-13節)。魚の門は、エルサレムの北側にある門で、第二区は、2列王22:14に出て来ますが、古代の城壁の北側に拡張された新しい区域のことです。「マクテシュ区」は第二区の南側で、同じエルサレム北側の低い所に設けられた市場でした。そこで外国人商人が集まり商いをしていたのです。神は、彼らの不正行為のみならず、「主は良いことも、悪いこともしない」と、神を恐れない心を見逃されないのです。
最後にゼパニヤは、主の日の恐ろしさを語ります(14-18節)。正直怖いと思うところですが、心動かされる読みが大切です。つまり、日々朝毎に聖書を読む時も、その習慣を継続する形よりも、神のことばにより、神と心を交わし、恐れや戸惑いを感じると同時に、喜びと感謝を覚え心動かされていく内的体験が重要なのです。そうであればこそ、悔い改めと神への信頼、そして新しい熱心さをもって一日を始めることもできるのです。