ヘブル人への手紙9章

ヘブルの著者は、幕屋の構造とそこで行われるささげ物の儀式について説明する。しかしユダヤ人が慣れ親しんだその儀式に実際の効力はない。むしろ、それは、比喩に過ぎないとする(9節)。つまり、すべては新約時代のキリストの業について語っていたのだ、と。

ヘブル書を理解するためには、少なくともレビ記に書かれた礼拝の儀式について知っておく必要がある(レビ4:1-5:13、6:24-30)。特にヘブル書との関連で重要なのは、全焼のささげ物(1章)と罪のきよめのささげ物(4-5章)、代償のささげ物(6-7章)である。それらには共通のプロセスがあり、神との関係を回復させる宥めの意味があった。また、それぞれ固有の異なるプロセスもあり、全焼のささげ物では焼き尽くす、いわば献身を意味する部分、罪のきよめのささげ物では祭壇の角に血を塗る、いわば罪の贖いを強調する部分、そして代償のささげ物では、犯された罪を償う損害賠償を強調する部分があった。幕屋ではこのように種々のささげ物がささげられたが、それらは意味不明の宗教儀式として行われたのではなく、明確な意図をもって、後に来るキリストの御業の予表として行われたのである。そして実際キリストは、手で造られた目に見える幕屋ではなく、目に見えない天にある完全な幕屋に入り、さらにやぎや雄牛などの動物をささげ物としたのではなく、ご自分の聖いからだを、またそのいのちをささげ物としておささげになった。それは、ただ一度限りの、これから後にも先にもない、永遠のささげ物とされた。

ユダヤ人は、動物の犠牲が彼らを聖めると教えられたのであるが、この聖いキリストがささげ物とされたのなら、ましてその聖めはいかほどであろうか、というわけである。確かに、私たちの罪の身代わりとなり、私たちの罪の罰を、私たちのような罪深い身ではなく、汚れなき聖い身に負われたキリストの御愛を思う時に、それは、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とするだろうか。キリストを深く思いたいところではないか。

さらにキリストは新しい契約の仲介者となられた(16節)。遺言の例があげられる。これは、万人共通であり、私たち日本人にもよく理解できるところだろう。遺言は、死んだとき初めて有効になると。つまりイエスが死んだことにより、イエスが血で結んだ新しい契約も有効になる。著者の理屈は、はじめの契約、つまりモーセの契約においても、雄牛とやぎの血を注ぎかけて、その死によって有効とされた。新しい契約は、イエスの血を注ぎかけて、イエスの死によって有効とされたのだ、というわけだ。ここで新しい契約について8章の議論を思い起こそう。新しい契約は、神の律法が心の中に書き記されるというものである。パウロは、ガラテヤ書においてこの古い契約と新しい契約をハガルとサラの子の比較をして、奴隷の子と自由の子の違いであると語った(ガラテヤ4:24)。実に、書かれた文字の律法に仕える人生と、イエスの愛の律法を心に印象的に焼き付けられ、その愛に生きようとする人生は大きく違うものがある。大切なのは、私たちは形の宗教に生きているのではない、まさにキリストの命に生きる信仰に生きている。

そこで再び、著者は、「血」に注意を向ける。大切なのは、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」(22節)というユダヤ人の基本的な思想であろう。日本人の発想と根本的に違うところである。つまり日本人は物事を水に流す文化を持っているが、ユダヤ人は命を犠牲にする文化を持っている。日本人は、罪を水に流して終わらせようとするが、ユダヤ人は、血でもって責任を取らせようとする。だから彼らの歴史では、繰り返し犠牲がささげられてきた。しかし究極の犠牲であるキリストによって、その方法は永遠に廃棄されたのである(12節)。しかもそれは、物質的な益をもたらすものではない、汚れた良心をきよめる極めて霊的な益をもたらす。つまり、イエスの究極の犠牲は、私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることを可能にする、まことに素晴らしい効力を持つ(14節)。

キリストは、まさにこれを、地上の幕屋ではなく、天の幕屋そのものに入って、これを成し遂げられたのである。それはただ一度限りの行為であり、永遠に効力のあるものとしてなされた。キリストを信じるというのは、まさにこの聖書が語る真理に信頼して生きることである。そしてその人生の究極の終着点として、私たちは、再びこのキリストとお会いする、天の場所を備えて私たちを迎えられるキリストの前に立つことを信じるのである(28節)。

やがて私たちは、再び来られる主の前に立たせられる。その時にどんな報告をすることができるだろうか。死んだ行いから離れて、確かに生ける神に仕える人生を歩み、その使命に全力を尽くしたと胸張って言えるのであろうか。それとも、漫然とクリスチャンらしく生きることができた、たいしたことはできていません、と答えるのであろうか。自由の子、キリストの命と愛に生きる者としての認識をもった歩みを進めさせていただこう。

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