ホセア書12章

12章 ユダとエフライムへの宣告

おはようございます。神は、立派な人間を相手に語るのではなく、罪人に向かって懇ろに語られます。悔い改め、神を求める所に、神の祝福と高い使命もあると言うべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.風を飼う

1節、ここで「風は」空しさを暗示しています。東風はアラビア砂漠から吹き付け作物を枯らす、シロッコ風と呼ばれるもので、破滅の象徴です。新共同訳は、「エフライムは、風の牧者となり」と訳しています。ヘブル語のローエーが持つ意味の幅からそのように訳されたのだと思いますが、この方が絵画的なイメージが湧きます。イスラエルは羊の群れを追い、羊を増やす牧者ではなく、空しさと破滅を牧し、まやかしと暴虐に巻き込まれる者たちである、と言うわけです。確かにイスラエルは、空気を読み、上手に外交戦略を進めて来たようでありながら、実際には散々貢いだアッシリアにもエジプトにも裏切られる歴史的な苦汁を味わうのです(2列王17:1-6)。大切なのは、事の成り行きを決める、神に目を留めて生きるかどうか、ということでしょう。

2.風を飼ったヤコブ

そこでヤコブの例が挙げられます(2節)。ヤコブは、人を押しのけて、自分を押し通そうとする強引な性格の持ち主でした。しかしそのために彼は大失敗をしてしまうのです。最終的に、彼は、これ以上突っ張って生きることができない、神が憐れんで、自分を守り、助けてくださるのでなければ、一歩も先に進めない現実に直面します。大切なのは、そこでヤコブが、「泣いて、これに願った」(4節)ことでしょう。

しばしば、人は自分の御しがたい性質を覚え、これが人生に災いをもたらすのだから、これを除き去らねば、と思います。しかしそのような性質は、罪人の一部であり、決して除き去ることはできないものです。大切なのは、そのような変え難い性質があることを認め、神に訴え、神のあわれみを求めることなのです。こんな私を受け入れ、私が生きることをお許しくださいと願うことなのです。変えてくださるのは神なのですから。そして失敗を繰り返しながらも、神のあわれみにすがりながら、神につき従っていくことでしょう(6節)。

3.居直らない

7節、イスラエルは富み栄えた時に、人を欺き(7節)、貧しい者を抑圧するようになりました。彼らは、それを正当化しました(8節)。当時、富は神の祝福の象徴とされましたから、神に祝福されていれば、不義ある人間とは言えない、というわけです。しかし、お金は誤魔化しが効くだけで、汚れた心を隠すことはできません。神の祝福に胡坐をかいたイスラエルに神は警告を発し、ユダにはそれに倣うことのないように、そしてさらによりよい生き方があることが語られます。つまり二人の逃亡者ヤコブとモーセの例が挙げられます。妻を得るためだけに生きたヤコブと、イスラエルを解放する神の使命に生きたモーセの対比です。クリスチャンとしての生き方も色々です。同じ逃亡者、負け犬のように見えても、志をどこに持つかで結果は違うのです。神に従う心を持ちましょう。