ホセア書13章

13章 恩知らずのイスラエルへの希望

おはようございます。恩知らずのイスラエルに対する裁きが語られます。しかし、パウロが新約でその言葉を引用するように、神は、チャンスを与えていないわけではないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.エフライムの偶像崇拝

昨日の文脈からすれば、再び、12:14からイスラエル全体への語り掛けとなるところです。つまり、ホセアは、12章1節までイスラエルに神のことばを語り伝えて来たのですが、12:2-13で、「ユダに対して言い分がある(2節)」と言い、特に南ユダ側に今にも滅ぼされそうな北イスラエルを見て、悟り、悔い改めることを迫っているのです。

13章では、再び、最終章までに至る総括的なメッセージとなり、エフライムの偶像崇拝の罪が告発されます。それらは皆職人の業である、と。2節「人を献げる者たちは、子牛に口づけせよ」というのは、この子牛こそ神だ、ということでしょう。しかし、神は、ただお一人、この天地をお造りになり、イスラエルをエジプトから救い出した方を置いて他にはありません(4節)。問題は、このように語られている者たちが、決して、天地創造の神を知らなかったわけではないことです。彼らは、救われた歴史を持っていました。5節、イスラエルは、荒野で、干ばつの地に放りだされていた者でした。そこから、食べ物を与えられ、生きる術を教えられ、着るものを与えられ、財を与えられ、すべてを備え、やがて王国を築くに至ったのです。にもかかわらず彼らは、その恩を忘れ、偶像崇拝に走ってしまいました。備えてくださる神ではなく、神が備えてくださったモノに頼る心を持つようになりました。

2.エフライムの希望

そのエフライム(イスラエル)の罪に、神は憤り、獅子(7節)、豹(7節)、雌熊(9節)、雌獅子(9節)のように立ち向かわれると言います。偶像崇拝者は、「朝もや」「露」「もみがら」「煙」のように滅ぼされてしまうのです。彼らは恩を忘れたのですから、当然の報いと言うべきでしょう。14節、「私はよみの力から、彼らを贖い出し、死から彼らを贖う」とあります。これを、反語的に神の裁きと理解すべきか、それとも、そのことばのまま、裁かれ、国家を滅ぼされ、死に至らせられたイスラエルに対する救いを語ることばと理解すべきか、論の分かれるところです。パウロは、コリント人への手紙15:54で、これをキリストにある者の死に対する勝利の凱旋として語り、救いの意味に適用していますが、ホセアは、あくまでも反語的に、「あわれみはわたしの目から隠されている」と加え、もはや救いの余地は残されていないと語っているようです。けれども、パウロがこのことばを、新約の光の中で、救いのことばとして理解したように、悔い改めるところに希望はあると考えるべきでしょう。どんなに、神の心はもう定まった、それは覆されない、と思わされる事態であっても、神のあわれみは柔軟なのです。神は、吐息にも似た小さな悔い改めの声すら聞き洩らすことはないでしょう。神のあわれみは、私たちの想像を超えた深さを持つものです。だからこそ、北イスラエルが、アッシリアに滅ぼされることが確実なこの期に及んで、なおも神は悔い改め求めたと言うべきでしょう。悔い改めに遅すぎることはありません。

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