14章 神により頼むダビデ
<要約>
おはようございます。ダビデの王位が確立されていく中、ダビデと神との関係が固く結ばれていくことに注目されます。そしてダビデに能力があったから神はダビデを選んだのではなく、ダビデのこれからの人生にどのような過ちがあるかも理解して上でダビデを王として選ばれたことにも注意しなくてはなりません。神はあわれみの神、私たちの人生は神のあわれみに支えられた人生です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
- ダビデの王権の確立
歴代誌は、既に述べたように、サムエル記との対比の中で読まれる必要がある。サムエル記がイスラエルの一般史だとすれば、歴代誌はその解釈だと考えられるからである。
サウルの死後、ダビデはその後継者となった。しかしダビデの王位は、即時に確立したわけではなく、協力や戦いを通してその王位を確立していくのである。ダビデは、神が自分をイスラエルの王として堅く立ててくださったことを知っていた。しかしその実質が伴うのは、先のことであった。
また、ダビデの王権が盛んにされたのは、ダビデ個人が祝福されるためではなく、ダビデを通して「主の民イスラエル」が祝福されるためであった(2節)。大切な点である。リーダーシップの確立は、必然的に組織の発展に還元される。個人の栄誉に帰して終わりではない。その歩みの中でダビデは、他者の協力を得、そして子どもたちも祝福されている。
2.ダビデの敵対勢力
しかし、ダビデにはさらに敵対する者も起こされた。ペリシテ人は、かつてダビデがサウルに追われていた時に匿った者たちである。それがイスラエルの王となったというだけではなく、確かに北のイスラエルと南のユダが、統合する動きはペリシテ人の脅威となったわけであるから、ダビデを狙って上って来たのも無理はない。ただ注目すべきは、ダビデは、敵にも囲まれたことだ。堅く建てあげられていくことは、いいことずくめ、協力者ばかりが起こされていくことではなく、むしろ物事は一層難航する中で、確立されていくことを教えられるところである。物事を成し遂げるにはそれなりの専心が必要ということだ(ルカ13:26,27)。
3.ダビデと神の個人的関係
14章のダビデに学ぶことは、ダビデが行動に移る前に、一々神に伺いを立てた、神に祈りながら事を進めたことだ。「ダビデは神に伺って言った・・・すると主は彼に仰せられた」(10節)、そして「ダビデがさらに神に伺ったところ、神は彼に仰せられた」(14節)とある。ダビデは、繰り返し主を仰いだ。主のみこころに意を注ぎ、徹底して主に従おうとした。それはやはり、サウルに追われた逃亡の生活の中で、神のみことばに支えられた経験から来たものなのだろう。神のみことばに支えられて歩む基礎が彼にはできていた。
そして神に拠り頼んだが故に、止めることのできない水の勢いに例えられる神の働きと一体になって勝利する経験に導かれている(11節)。「破る」は、ヘブル語パラツであるが、13章のウザの割り込みによって、ペレツ・ウザと名付けられたその地名と同じ言葉が用いられている。ペレツは、「割り込む」の意の語根「パラツ」の派生語である。そこに興味深い対比を見て取ることができる。ウザのとっさの割り込みで不意打ちの不幸を経験したダビデが、今度は、主の水が敗れ出るような、もはや妨げることのできない勢いのある割り込みによって勝利を経験している。
神を信じながら、神にわずかしか期待しない現実がある。自らの幸せを神にではなく、具体的な他者に求めている現実がある。自分を引き揚げてくれる誰か、助けてくれる誰かにあてのない期待を抱き続けていることがある。しかし、主の割り込みによって、勝利があることをダビデは経験した。私たちの辛酸を癒してくださる主がおられることを私たちは知らねばならない。ダビデが優れ、愛らしかったわけではなく、神に伺い、命じられたとおりにしたダビデに、著者は注目させる。偶像を焼却し、神に専心したダビデにこそ加勢し、周囲の国々に恐怖を起こされた主がおられた。