17章 王国の完成を祈る
<要約>
おはようございます。祈りは、神に勇気づけられて行うものであることを教えられるところです。神が、与えようとしておられる祝福が、そのとおりになりますように、と願っていく。そこに祈りの本質があります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ダビデに対する神の「否」
礼拝の回復の後に、神殿再建の話が来る。その順序性は象徴的である。会堂を建てあげることと教会を建てあげることは別物である、ということだ。
ダビデは預言者ナタンに相談した。ナタンは、即座に、ダビデに彼のしようとしていることをするように勧めている。ナタンにとっては、主のための善であれば、わざわざ主の御旨を聞くまでもないと思ったのかもしれない。しかし、そんなナタンに、神が介入し、「否」と仰せられる。そして、翌日ダビデは、おもいがけない神の「否」を告げ知らされたのである。
それは三つの理由によるものであった。第一に、神は神殿を求めてはおられないことである(5,6節)。神は民と共に住まれるお方であり、イスラエルと共に旅する者であることをよしとされてきた旅人である。礼拝は場所の問題ではない。
第二に礼拝の民の務めは、自分の最善を尽くすことではなく、神のみこころに従うことにあった(7-10節)。神はダビデに言う。「私はあなたを~とした」そして「わたしはあなたを~とする」ダビデに対してしてきたこととダビデにしようとしていることを明確に告げている。つまり、神は世話をされるような方ではない。むしろ神が世話をしてくださる。神が、私たちを支え、導き、祝福されるのである。そのお方のみこころを聞き、そのお方に従っていくことが、私たちのすべてなのである。
そして第三に、神の関心は神殿という建物ではなく、王国を建てあげることにあった(10-14節)。その王国は、「わたしの王国」と言い換えられているように、ダビデの王国ではなく神の王国である。つまりダビデは神の神殿よりも、神の王国を完成する使命へと目を開かれている。その王国を建てあげるリーダーシップを、神は彼と彼の子孫にも託されていたのであり、それは、イエスに至るダビデの家系によって完全に成就されたものである。地上の教会を超えた神の王国を完成させるビジョンがある。独りよがりに自分の教会だけをよしとする考え方はどこかで、この歴代誌に示された神のビジョンによって変えられて行かなければならないだろう。
2.ダビデの祈り
後半は、ダビデの祈りである。ダビデは、神の祝福のことばを、信仰と感謝をもって受け止めている。「ダビデ王は行って、【主】の前に座し、そして言った。「神、【主】よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家について、はるか先のことまで告げてくださいました。神、【主】よ。あなたは私を、高い者として見ておられます。」(16,17節)。ダビデは子どものように、神の恵み深さを覚えて感謝している。そして主に願っている「どうか、【主】よ。あなたが、このしもべとその家について約束されたことが、とこしえまでも真実をもって行われますように。あなたの約束どおりに行ってください。」(23節)。私たちの祈りの基本姿勢は「どうぞ、あなたの約束どおりに行ってください」と願うことに他ならない。そういう意味で、私たちの信仰は、神のみこころを願う祈りによって表現される。マリヤが「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と祈ったように。だが、多くの場合は、恵み深い神を覚えて、神のみこころがなるようにと願うのではなく、豊かに富たもう神を覚え、自分の思いや要求を突きつけ、神は私の祈りを聞いてくださらないという不満に至るのである。
ダビデが祈る勇気を与えられた姿に注目させられる。祈りは神に勇気づけられて行うものである。神に導かれて行うものである。それは、捕囚帰還後の読者にも、大変な意義を持つことばである。というのも、彼らは落伍者であり、失敗者であり、神の前に立つなどおこがましいもの、まして神の祝福を期待し、祈るなど難しいことと思われる心境であったからである。だが、そうではない、神は祝福を約束される。それは、私たちの思いを超えたものだろう。私たちが思う様なものではないかもしれないが、私たちにとってはこれが最善であると満足に至る内容であることは確かであり、ただその約束のとおりになりますように、と願うことが求められていることである(25節)。
神殿は「祈りの家」(イザヤ56:7)と考えられるようになり、そこは、共に集まって神の王国の完成を祈り願う場とされていく。それは、今日の教会の機能にも通じることだろう。私たちは相集まり主の王国の完成をそこで祈るのだ(27節)。