2歴代誌27章

27章 ヨタム

<要約>

おはようございます。ヨタムの短い治世が語られます。「善生は長生にまさる」実に、短くも、神の前に自分の道を確かにして生きる人生は、よき報いを受けるものでしょう。それは、一つの範というべきでしょう。何を範として生きるか。それは、神に向かう内面的な姿勢であるはずです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨタムの時代

ヨタムは、神に大いに祝福された。それは、「彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとした」(6節)からである。彼は、主に従うことを第一とした。ヨタムの生涯は、短く、その統治期間も長くはない。しかし、「善生は長生にまさる」(山室軍平)と言うように、どれだけ長く生きたかではなく、どのように生きたかが大切だ。ヨタムは、基本的に父ウジヤの事業を引き継いだ。神殿を修復し(3節)、ユダの山地を開墾し、町を開発した(4節)。軍事力を強化し、アンモン人を支配し、貢物を納めさせるようになる。ヨタムは勢力を拡大していき、神の前に自分の道を確かなものとしていった。

しかし、そのような王の姿勢とは全く釣り合わずに、国民の霊性は下降線を辿っていたのである。「民は依然として滅びに向かっていた」(2節)とある。この時代に預言活動をしたイザヤは、「反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。」(イザヤ1:4-6)と民の状況を伝えている。民は偶像礼拝に毒され、正義を捨て去り、肉の欲のままに生き、滅びに向かっていた。ユダ南王国は物質的には繁栄していた。しかしその霊性は、堕落、反逆と病に満ちていたのである。

2.国民への神の期待

ユダ南王国が繁栄したのは、ヨタム王一人の霊性によるかのようにすら思われる。ヨタム王に免じて、神がイスラエルの国を守られた、とも読める。しかし、神は、イスラエルの国民に全く期待しなくなった、ただヨタムだけを見ていたわけではない。

少し遡って、25章からの流れから見ると、イスラエルの国を再生する主要な役回りに注目される。25章は、国王と預言者、26章は国王と祭司、そしてこの27章は国王と民の組み合わせをもって、イスラエルの歴史が綴られる。つまり、預言者(25章)、祭司(26章)によって、宗教的な純粋性への警鐘が鳴らされ、国王が神の前にいかに生きるかが語られてきた。しかし、国家を形作るのは、国王のみではない。27章では、民もまた主の前に自分の道を確にし、神にしっかり心を向けるように促されているのである。

7-9節は結びの定型文となっている。ヨタムは、正常な形で葬られたことが記されている。これは、ある意味で、これまでの王の死に方からすれば、稀である。ヨタムの正しさを認めることばなのだろう。

ともあれ捕囚帰還後、この書の読者が思ったことは、王が神の前に自分の道を正した、というのであれば、その臣下である自分たちも同じように、というメッセージであったのだろう。教会としても同じメッセージを受け取る必要がある。献身者だけが神に献身しておればよいのではない。教会を構成する信徒一人一人も自分たちの責任において、神の前に自分たちの道を確かにしていくことが期待されている。確かに、現代の世は、必ずしも、クリスチャンに味方をしてくれるものではない。私たちが信仰に生きようとするならば、その意気をくじき、足を引っ張ることばかりである。しかしそのような中であえて、地の塩、世の光としての生き方を選びとっていく、その姿勢を神が祝し、道を整えてくれることを、信頼して歩みたいものである。

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