詩篇64篇

64篇 あきらめるな
<要約>
おはようございます。キリスト者として人生をスタートすることで、ますます深まるのが神との関係であると言えます。神を喜び、神を誇り、神を大いに賛美する人生、人を愛し、人を助け、人と共に正しい道を歩むことを喜ぶ人生であると言えます。いよいよその深まりがあるように。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
この詩は、アブシャロムの反逆を背景としていると考えられている。身内が反逆し、さらに敵対者となる、それは、厳しい状況である。
実際2-6節の悪事を行う者どもの騒ぎが、サウルではなくアブシャロム、つまり自分の身から出たものとすれば、それは何と、悲しく、やるせないものだろう。身内であるのに、血のつながりがあるはずなのに、それがなんだというばかりである。
敵対者ははかりごとを巡らす(2節)。そして情け容赦のない、切り裂くようなことばを放ち、バッサリである(3節)。しかも、不意に。全くそれは不本意なことばであり、濡れ衣を着せるというようなものである(4節)。彼らにあわれみなどない。容赦もない。考えることは潰すことであり、排除することだ。そして、そんな素振りをおくびにも見せないのだ(5節)。その腹の底の冷酷さを誰が知ることができるか。全く人はわからないものである(6節)。
こうして、敵対者が群れて、悪、不法、策略、攻撃を持って、徹底して排除しようと動き出す時に、人は脅威を感ぜずにはいられない。逃げ場はないからだ。一度人は、排除しようと心に決めると、結局、死に至るまで敵対するものであったりする。人間社会において何が最も恐ろしいかといえば、人間である、と思わされるのはそのような時だろう。
2.ステレオパターンかもしれないが、諦めてはいけない
しかし、どんなに敵が現れて、もはや、彼らの陰謀に囲まれて絶体絶命に追い詰められることがあっても、恐れることはない。味方になってくださる方がいるからである。「神が彼らに矢を射掛けられるので、彼らは不意に傷つきます」(7節)と言う。
敵たちが練りに錬った策略は、逆に自分たちに跳ね返ってくる。自分たちの首を絞め、破滅に至らせる、という。エステル記のハマンの運命が思い出されるところだろう。大切なのは、神の前にあって「正しい人」(10節)は、敵になる者の陰謀を恐れる必要がない。神にあって、「心の直ぐな人は」(10節)神に身を避け、神を誇ることができる。新共同訳は「主に従う人」(11節)と訳すが、ここは、ツァディーク、神の前に行動と性質が正しい者という意味である。直ぐな人は、ヤシャール、真っ直ぐな道をイメージする言葉である。
要するに、どんなに敵対者が現れても、神の前に正しさを貫き通せる人、真っ直ぐな心を持ちうる人に恐れはない。敵対者の攻撃が巧妙で、自分の行く末には希望がないと思うようなことがあっても、簡単に諦めてはいけない。問題は、人が自分の正しさに自信が持てない時だろう。人間というのものは、過去に引っ張られるものであるから、今の事柄とは関係がないと思っても、あいつは、悪いやつ許せないと思いつつ、自分も同じ穴のムジナではないかと思わされるところがあるものだろう。しかし、イエスの十字架の赦しの故に、新しい人生を歩んでいるのなら、いつまでも過去を穿り回さないことである。そして今ある不本意なことを、過去の報いであると考える必要もない。むしろ、今は今、今の問題について、神の正義を大いに期待してよい、というべきだろう。それは、キリストにあって新しい歩みを始めた者が、神の誠実さを、心から教えていただく機会なのである。恐れるべきは神のみであり、人は恐れるに足りないこと、信頼すべきは神のみであり、もはや信頼すべき誰かを探す必要もないことを、さらに深く悟らされる機会なのである。こうして正しい人、キリストにあって正しさに立つことができるようになった人は、ますます神を喜び、神の素晴らしさを味わい、神を讃え、誇るようになる。キリスト者の人生はまさに、神を誇る人生である。