テサロニケ人への手紙第二2章

既にパウロは、1テサロニケの手紙で、キリストの再臨が確実であるとしても、その時はだれにもわからないことを明言している。だから、その時がいつであってもよいように、目を覚ましているように、と語るのだが、2テサロニケの手紙では、少なくとも二つの前兆があると語る。

一つは、背教である(3節)。背教は、ギリシア語でアポスタシア、政治的、宗教的な反乱を意味する。70人訳聖書では、神への反逆が意図されている。政治的反乱も、神が立てた制度に対する反乱と考えれば、神への反逆であり、背教は、世をあげて神に逆らう時代になる、ということだろう。そう考えると、昨今の世相は、終末を間近に感じさせるものがある。

二つ目の前兆は「不法の人、すなわち滅びの子」が現れる(8節)。ギリシア語で「ホ・アンスローポス・テース・アノミアス」は慣用表現で、破滅に定められた者を意味している。世の終わりには、人の子が栄光のうちに現れる。けれども、滅びの子もまた姿を現してくる。ヨハネは、「不法の人」ではなく、「反キリスト」という言葉を使っている(1ヨハネ2:18)。一体それは誰なのか。興味深いところで、歴史的にも様々に議論されてきたが、自分を神のように高める者が現れる、と理解しておくにとどめよう。

この背教と不法の人が現れなければ終末は来ない。しかも、パウロは言う。こうした二つの兆候を引き止めているものがある、と。つまり背教と不法の人が現れる、タイミング、「定められた時」がある。そして、不法の人がどのくらい地上を支配するのかはわからないが、そのような脅威が確かに現れた後、神によってその不法の人は滅ぼされるのである(8節)。

大切なのは、彼に従って滅びる人たちがいると予告される点である(9節)。彼らは真理への愛を受け入れない、つまり十字架愛の福音を受け入れない。滅びはその必然的結果である。罪の赦しを語る十字架愛を受け入れないのであるから、滅びるのはやむを得ない。ただ、そのように惑わす力を神が送られる、とは(11節)受け入れ難くも思われるが、それは神の主権性を認める意外性のある表現であるに過ぎない。すべての悪も神の支配のもとに置かれている、という確信からすればこういう言い回しになる、ということだ。

13節の「しかし」は、「滅びる人たち」と「あなたがた」つまりテサロニケの信者を鋭く対比する。あなたがたについては、別だ。神は同じ主権をもって、あなたがたは救いにお選びになっている、という。しかもそれは、神の召しに対する応答ということで、テサロニケの人々が十字架の福音を受け入れたことに基づいた結果としての選びである(14節)。神は私たちを選びに召してくださるが、それを確実にするのは、私たちの応答による。だから、先の第一の手紙では、苦しみと患難の中で堅く立つように勧められたが(1テサロニケ3:8)、ここでは、「教えられた言い伝え」に堅く立つように勧められている。言い伝えは、イエスと使徒たちの倫理的・教理的な教えのことで、そこに堅く立つことは、人間の努力だけでは難しい。神の助けが必要である。だからパウロは、16節から再び祈っている。特に、神が与えてくださった二つの賜物について祈っている点に注目しよう。一つは、永遠の慰め。神の恵みによって与えられるもので、世が与えるものとはまったく質的に異なる神からの励ましである。二つ目に、すばらしい望み。死のかなたにある望み。この世の栄華によらず、失望に終わることのない望みである。まず彼らがそれを経験するようにと祈る。神はすべての慰めの神(2コリント1:3)であり、また望みの神(ローマ15:13)である。この神の助けによって、あらゆる良いわざとことばとに進む者であろう(17節)。