テモテへの手紙第一1章

パウロからテモテへ書かれた書簡である。彼らはもう何年も同労者として働いてきた間柄である。それなのに、パウロは自分がどのように使徒となったのかを自分の肩書として書き加えている。「救い主」は、ギリシア語でソーテーロス、当時は、ローマ皇帝を指して使われた。それはローマ皇帝が究極の問題解決者であったからである。しかし、パウロは、聖書の神こそがその称号を得るにふさわしいと考えていた。最も信頼のできるソーテーロスは、神ご自身である、と。またキリストを望みであると言う。確かに、キリストは、十字架の苦難を耐え、死に勝利し、復活のいのちを明らかにした。キリストは望みである。その神とキリストの任命による使徒、つまり、神の国からこの世へ遣わされた大使、連結環である、と言う。パウロは、大使として、国王キリストの挨拶を伝えている。恵みとあわれみと平安とがあるように、と。恵は、受けるに値しないにもかかわらず与えられる何かであり、あわれみは、救いとほぼ同義に捉えてよい。平安は、イエスが、長血を患った女に語られたことば「安心して行きなさい」を思い浮かべさせる。パウロは、自分の励ましではなく、自分の主もあり、テモテの主でもあるキリストの励ましに、目を向けさせようとする。

さて3節、パウロは率直に、テモテが直面していた牧会の問題の手ほどきに入っていく。一つは、「作り話と系図」を特徴とする偽りの教えに関するものである(4節)。テトスも、クレテ島で同じような問題に直面していた(テトス1:14、3:9)。しかし、信仰は論議ではない。知的論争によって育まれるものでもない。それは、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛」を目標とするものである。キリストに倣い、愛に成熟することこそが信仰の究極的な目的である。そこからずれてはいけない、正しい方向付けをしなさい、という。確かに牧会のリーダーシップは、霊的な方向性をはっきりと指し示すことであろう。

では、それは何をもって示すのか。牧会者の人生経験でも、思索による結論でもない。それは、聖書である。神のみことばに一人一人を結び付け、神のしもべとして整えていくことが牧会者の務めである。ただ当時は聖書と言えば、それは旧約聖書であり、律法であった。新約聖書ではない。旧約聖書は、新約聖書があってこそそのメッセージを完結するものである。その旧約聖書の機能は何か。それは、違反を知るためにある、とパウロは言う。律法は、私たちに罪を指摘し、キリストにある救いを求めさせるものである。つまり新約聖書に明らかにされたキリストにある栄光の福音に心を開かせるためにある。私たちは、律法を用いながら、一人一人を福音へと向かわせる働きを委ねられている。それは実に、素晴らしい恵みであるとパウロは重ねて語る。

かつてパウロは神を汚す者であった。イエス・キリストの神性を否定し、それを否定するように他人にも強いていた。だからパウロは迫害者であり、キリスト者に対する「脅かしと殺害」の意に燃え、教会を破壊しようとした。(使徒9:1)。タルソのサウロは、聡明で、立派な教育を受けた人物であったが(使徒22:3、ガラテヤ1:13-14)、その心は真理に盲目であったばかりか(1コリント2:14、2コリント4:3-4)、野獣のように残忍で、乱暴な者だったのである。本来ならば、神の前に立たされたその瞬間に滅ぼされてしまうような者であったことだろう。しかし、パウロは命拾いした。実に神はあわれみ深いと、涙にむせび、しゃくりあげながら感謝できるだけでも幸いであった。しかし、それ以上に、パウロは忠実な者と認められ、福音の務めに任じられる、大いなる祝福を受けた。それはただ主の「あわれみ」、「恵み」、「この上ない寛容」による。まさに「わき道にそれ、自分の言っていることも、強く主張していることも理解していない」罪人パウロに、神が限りない愛を注いで、救ってくださったのである。自分は罪人の頭である。キリストは正しい者ではなく、罪人を救うお方である。これは、パウロの深い確信であった(15節)。となれば自分はサンプルに過ぎない(16節)。つまり、すべて失われた罪人に起こることの見本である。自分が特別なのではない。自分は受けるにふさわしくない神の素晴らしい愛を受けた者の一人に過ぎない。だからこそ、ああ、この神にのみ、誉と栄光が限りなくあらんことを!となるのである。

そしてパウロは、テモテに向かい合う。あなたもこの務めを逃れることはできない!と。パウロは、自分がふさわしくない者でありながらも、神に召し出されたように、テモテも、神に召し出されたことを思い起こさせようとする。パウロは、使徒の働きに描かれている三回の伝道旅行に召し出される前、全く無名の人であった。しかし、彼がアンティオケアの礼拝と断食の祈り会聖霊が彼を伝道者として召し出したのである(使徒13:2)。同じことが、テモテにも起こっていたのであろう。パウロは、テモテが預言によって、エペソ教会の牧師として召し出されたことを思い起こさせ、その預言、つまり神の召しに応答することが、テモテの責任であることを明言する(18節)。ヒメナオとアレキサンデルのようであってはいけない。彼らは健全な良心を捨てた。神に応答する良識を捨て、結果として信仰の破船に遭ってしまう。神に召し出された者であることを忘れずに、そこに正しく応答する。牧会者としての任務と責任につく、これがまず求められたことである。これは、牧師のみではない。信徒も同じである。信徒も主にある任務を委ねられている。それは賜物に応じてのことであり、自らも、神に委ねられた務めがあることを、覚えて歩ませていただこう。