ヤコブの手紙4章

ヤコブの手紙4章 神を勘定に入れる
1.争い事の本当の理由(4:1-6)
3章の続きですが、どうして争い事が起こるのだろうか、振り返らされるところですね。落ち着いて考えてみれば、それは、人間としての未熟さというべきものでしょう。人間として、お互いに自己主張するのみで、譲ることがない、いやいや、自分の中にある欲望を治めることを知らない。欲しいと思ったら、その所有者を抹殺してまでも手に入れようとする。しかしヤコブは言います。人間はそんなものではないです。そのような愚かな解決方法しか取れない存在ではないです、と。神様がいるじゃないですか、神様に求めましょう、と。いや、神様に祈ったって、そんなにポンポン必要なものは与えられないじゃないか、と言う人もいるでしょう。それに対してヤコブは、そうでもないのだ。3節「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからだ」と言います。
確かにそうですね。欲しいと思った事柄について、よくよく考えると、それは自分の欲を満たすためなのです。公共の利益、皆の利益のために、欲しいのだ、と思うことは少ないものではないでしょうか。皆のためにと言いながら、そこにはちゃんと自分が得する何かがあったりするものです。そのようなあなたは、世を愛しているのであって、神を愛しているのではない。いや、ひょっとして神の敵になっているのではありませんか、とヤコブは言います。確かに、関心は自分のこと、自分を富ませること以外の何物でもないとしたら、ある意味で悪魔的ですね。知らず知らず神の敵になっているようなものでしょう。6節「神はさらに豊かな恵みを与えてくださる」神は、人類にとって必要なモノは本当に豊かに与えてくださるものです。海の幸、山の幸、人は大地の恵みをただで与えられているのですから、本当に何かが皆のために必要だとなれば、神はそのことを心に留めて、手を貸してくださることでしょう。
2.神に心を重ねる(4:7-17)
ですから、もし本当に何事かをよくしたい、何事かを変えたいと思うのなら、神に近付くことです。我欲に満ちた心を、神の聖い心に合わせるようにしていくとです。世の中と神の事、あれこれ心が分かれながら、矛盾した心でいる人よ、心を聖別して、本当に、人類を愛し、人類のために良きことをしてくださる、その神の心と一つになりなさい。そうすればもう争うこともなくなるでしょう、ということではないでしょうか。
9節「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。笑いを悲しみに、喜びを憂いに」人は、楽しいこと、良いことを求めがちです。しかもそれは自己中心的な楽しみ、喜びであったりするものです。お茶の間のテレビでミヤンマーの内乱を見ながら、あるいはタリバンの復活を見ながら、ああ大変だなあと思っても、ニュースが終わればスイッチを切って自分の世界に戻っていく。同じ人間が苦しんでいる、悲しんでいる、叫んでいても、それは対岸の火事で忘れ去られてしまうまう、これが人間の現実でしょう。しかしそのような自分の心の状態に嘆き、悲しむことは大切ですよ。というのもその心の現実が、結局は、私たちの身近な争い事の根にもなっているのです、と言っているのではないでしょうか。
他方自らが不遇の状況にある時は、主の権威のもとに遜っていれば、ちょうどよい時に、神がこれを引き上げてくださいます、と言います(10節)。だから毒づいたり、悪態をついたりするのも止めること。さばきは神に委ねることだ、となります。また、逆に、商売がうまくいって、儲けに儲けている人たちには、注意しなさい、明日のことを保証するのは神ですよ。神を勘定に入れない人生など危ういもので、いつ足が救われるかわからないですよ、と。神を覚えて、神の御前にあって、為すべきことを知る、そして為すべき正しいことをする、それが私たちに求められていることではないでしょうか。では、今日も良い一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ヤコブの手紙は、公同書簡と呼ばれますが、公同は、何を意味しているでしょうか?」答えは、普遍的、誰に対しても通用するでした。公同書簡は、特定の教会や信徒に宛てたものではなく、広く一般のキリスト教徒に向けて書かれたものと理解されている書簡です。では、今日の聖書クイズを一つ。聖書で悪魔に誘惑されたエピソードを持たない人物は、次の誰でしょうか。①エバ、②ヨブ、③ヨナ、答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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