ヨハネの福音書20章

ヨハネの福音書20章 神の栄光を信じる
1.空の墓(20:1-18)
 安息日が明けた朝、マリヤは、まだ暗い内にイエスが葬られた場所へやってきました。このあたりの出来事は、マタイ、マルコ、ルカと読み比べてみると、それぞれ違いのあることがわかります。天使が現れた様子、天使がいた場所、マリアとイエスが遭遇した状況、ペテロが空の墓を確認した状況、それぞれ違うのです。一番、内容的に近いのは、マルコとヨハネでしょう。どれが事実に近いのか、と思わされるところですが、大切なのは、9節「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」という事実です。事の次第は、いささか曖昧ですが、復活したのは事実、そして、聖書がイエスの復活について語っていることを彼らが理解していなかったのも事実だったということです。
さらに言えば、ヨハネにイエス昇天の記録はありません。明日の21章を読めばさらにその特徴がはっきりしますが、ヨハネは、十字架から復活までを記録し、天の御父の元に戻る途上にあるイエスを描き終わっているのです。そして先のマタイやマルコ、ルカの福音書のように、宣教を命じることばもありません。なぜそうなのか、それはおそらくこの福音書の読者を想定してのものだったのでしょう。つまり、当時迫害の苦難と死の危機に直面していた読者には、イエスの十字架の死にこそいのちがあった、それを最初の弟子たちもわかっていなかった、と教えられる必要があったということです。そして17節、ヨハネだけが記録するイエスのマリアに対することばは、十字架の死に直面したあのイエスが、天の御父の栄光の元に戻りつつある、ことを示し、苦難の中にある読者もまた、同じ途上にあることを教えようとしている、と言えるでしょう。
2.平安があるように
とすれば、19節以降のエピソードの趣旨も明らかになってきます。19節、ユダヤ人を恐れて集まりあっている弟子たちにイエスが現れています。それはまさに、迫害下にあった当時の教会の状況そのものであったことでしょう。そのように、信仰を試され、集まり合う信仰者たちに、ヨハネは、イエスが現れ「平安があるように」と語り、目に見えない聖霊が共にあることを思い起こそうとするのです。そして、なおも平安を持ちえないでいる、キリスト者に、トマスのエピソードを描くことで、単純に信頼すること27節「信じない者ではなく、信じる者になる」ように促すのです。トマスは、不名誉な不信仰者の汚名を着せられていながら、実に、当時の信仰者にとっては、「私の主、私の神よ」と信仰告白を引き出すよき模範であったと言えます。
こうしてこの福音書は、マタイやマルコ、ルカとは異なって、単純に教育および宣教的な目的をもって書かれたというよりも、むしろ、信仰の深い部分で、キリスト者を支える目的をもって書かれたと言うべきでしょう。信仰と不信仰の狭間で揺れてしまう信仰者、それは、別に、珍しいことではありません。大切なのは、そのような一見不信仰とも言えるような状況にありながらも、一人一人が、ニコデモように、またサマリヤの女のように、イエスと語り合いながら、31節、信仰の確信を深めていくことです。もし本当に神がおられるならば、信仰の深まりもあるのです。そして信仰は、一生懸命信じようとして起こってくるものでもありません。それはイエスと出会うことで、上から与えられるのです。謙虚に神のもとに遜り、聖書を通じて神と語り合うところに備えられるものなのです。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、ヨハネの福音書にトマスは度々出てきますが、トマスの信仰告白「私の主、私の神よ」は、何回目の発言に当たるでしょうか?①3回目、②4回目、③5回目、昨日のクイズの答えは、①足を木槌で打ち砕くでした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。