出エジプト記1章

ヘブル語聖書は、「さて」と、創世記の続き者であるかのような書き方をしている。つまり族長たちに予告されたことがいよいよ実現する時が来たことを語り、確かに、エジプトに入国した時には少人数であったのに、出国する時には多人数になっていたことを確認している(7節)。エジプトにはヨセフを知らない王が現れた。いったいそれはいつ頃で、誰であったのか。エ古代エジプト史は、古王国(BC27-22)、中王国(BC21-18)、新王国(BC1567~1085年)と三つの時代に区分されるのが通例で、私たちに馴染み深いピラミッドやスフィンクスの像、あれは古王国時代のもの、エジプト全盛時代のものである。ヤコブがエジプトに移住しヨセフが大臣であったのは、そのずっと後のこと、17世紀以降中王国と新王国の間、セム系のヒクソスがエジプトを支配した時代とされている。彼らは、エジプト中王国の崩壊後、その混乱に乗じてエジプトの支配権を握った外国の侵略者で、同じセム系の民族であったために、ヨセフをファラオの第二の車に乗せ、重用し大臣とし、家族をも歓迎して国に迎えることが可能であった、というわけだ。ヒクソスは、第17王朝であったので、その新しい王は、第18王朝(BC1570-1310)となり、この時代にエジプト内でのイスラエル民族の立場が変化していったのであろう。エジプトの中で虐げられていき、やがて奴隷にされていくのである。
ただヨセフを知らない王については、研究者の間に二つの説がある。一つは、BC 1450 年頃のアメン・ホテプ二世の時代、もう一つは、BC1200年頃のラメセス二世の時代である。1列王記6:1には、イスラエル人がエジプトの地を出てから480年目にソロモンが主の家の建設に取り掛かったと書かれている。それでソロモンが神殿建設を開始したのは、BC 967年とわかっているので、それから遡って480年となればBC1450年頃になる。聖書記述に基づいて年代を推測すると、BC1450年頃のアメン・ホテプ二世の時代が有力となる(早期説)。ところが考古学的に歴史的事実を調べていくと、その時代に、エジプトのピトムにはそういう町は立っていなかった。そこに町が建てられたのは、さらに後の時代で、だいたいBC1200年頃のラメセス二世の時代になる(後期説)。聖書の記述と考古学的な研究では、結論にずれがあるというわけだ。最近の研究では、後期説が有力で、モーセに導かれたイスラエルの脱出は、色々な根拠から新王国時代、第19王朝(BC1310-1200年)、つまり13世紀の初期であったと考えられているようである。エジプトと言えば、ピラミッドやスフィンクスのイメージが思い浮かぶが、出エジプトの事件というのは、あの歴史よりもさらに1000年ほど新しい。そういう時代の出来事であった。
さてこの新しい王は、イスラエル人を国外に追放することを望まなかった。むしろ、東部デルタ地区が外敵により攻撃された場合に必要となる物資や武器を保管するための倉庫の町々を建設する労働力にしようと考えた。またその人口を抑制しようとした。イスラエル人を奴隷とし、強烈な炎天下でのレンガ作り、運河掘り、潅漑事業等、厳しい強制労働を強いた。ところが、イスラエル人は、弱くなるどころか、益々増え広がってしまった。そこでパロは男子のイスラエル人が産まれたなら、即座に殺すことを命じた。だが、神を畏れる二人の助産婦、シフラとプアの知恵ある抵抗によって、子どもたちの命は守られていく。ちょうど、イエスが生まれた時にヘロデが2歳以下の男の子が殺すように命じたのと似ているが(マタイ2:16)、神の計画は妨げられることはない。むしろ神を恐れる、シフラとプアによって、神の計画は勧められていく。人は目に見える権威を恐れやすい。だが、目に見えない世のどんな権威にも優る神の権威を信仰の目ではっきり見る時に、信仰者の命をかけた行動が起こる(箴言29:25,26)。
助産婦たちを使ってイスラエル人の人口を抑制できないと知ると、パロは最後的で直接的な手段に訴えた。王は、イスラエル人に生まれた男子は皆ナイルに投げ込むように命じた(22節)。
 神はアブラハムに、彼の子孫が苦しむであろうことを預言しておられる(創世記15:13-14)。パロは、イスラエル人の功績によってエジプトが成り立ってきた歴史を忘れたのみならず、自分の身を案じて、イスラエル人を自分の都合のよいように利用しようとした。だが、そんな人間の横暴がいつまでも続くわけではない。出エジプトは、常識的には考えられない方法で、神が助けを与え、苦境からイスラエル人を脱出させた物語である。神の力強い御手が働く時に、これを阻止することができる者はない。助産婦たちにしても、ただ、この世の悪に反対したわけではない。神の前に正しいことを行うという姿勢の故に、彼らの行為も守られ、祝されたのである。
 今日、もし自らが苦境にあると思うならば、その苦境を打ち破るのは神であることを覚えて、神の前に何が正しいことであるかを考え抜き、神の前に正しき道を選択し、歩みたい。