ハバクク書1章

ハバクク書1章 ハバククの祈り

おはようございます。ハバクク書の特徴は、ハバククの祈りが、預言とされているところです。上から下か下から上に向かうことばがそのまま預言となっているのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ハバクク書の特徴

ハバククは、自らを預言者としています(1節)しかし、開口一番「いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに」(1節)と語り、民に神のことばを伝えるのではなく、逆に、神に向かって語り掛けているのです。これまでの預言者と異なって、ハバククは、自らの祈りをメッセージとしています。

ハバクク書の歴史的な背景はあまりわかっていません。ただ1:6のカルデア人という表現は、おそらく、弱体化したアッシリヤを滅ぼした新バビロンではないか、と考えられています。先に学んだナホム書が預言したとおり、バビロンとメディアの連合軍はアッシリヤの首都ニネベを陥落(BC612年)させ、アッシリヤ軍をハランまで追い詰め滅亡させました(BC609年)。その数年後には、二大大国エジプトと新バビロンがカルケミシュで戦い、新バビロンが勝利を収め、やがてネブカデネザル2世が登場します(BC605年)。イスラエル(ユダ南王国)では、ヨシヤ王死後、つまり徹底的な宗教改革を空しくする偶像崇拝が復活したエホヤキム王の治世で、預言者エレミヤが活躍していた時代です。すでに、エレミヤは20年間の長きにわたって「主の言葉」を語り続けてきましたが、民は主の言葉に聞こうとしませんでした。(エレ25:3)

2.ハバククと神の対話

1-4節の暴虐、不法などはユダ王国内部のことを言うのでしょう。諸外国の民族による圧迫という説もありますが、どうやら神のみ教えを無にする信仰者の現実を訴えているようです(4節)。神はそのハバククの訴えに、カルデア人を起こして処罰されると答えられました(6節)。そこでさらにハバククは、神に訴えます。なぜカルデア人なのか、と。カルデア人は、勢いがあるけれども実に野蛮な存在ではないか。人間を「海の魚」のように無差別に「自分の網で引き揚げ、自分の引き網で集め」まさに侵略を「喜び楽しむ」(15節)者たちではないか。なぜそんな悪しき者たちに、ユダ南王国を裁かせようとするのか。「あなたの目は、悪を見るにはあまりにもきよくて」というはずなのに、なぜそのような残酷な仕打ちを許されるのか、と言うわけです。神の答えいかに?それは明日のお楽しみです。

これまでの預言者は、ナホムのように神の裁きをそのままストレートに伝え、神の裁きの手法について異議を唱えることはありませんでした。神のなさることは当然のことで、ユダ南王国が悪い、その一言でした。しかし、ハバククは、神に裁かれるのならば納得できる方法で裁かれたいと言うのです。注目すべきは、神が、物事を単純に扱わず、このように人の寄り道感情にお付き合いされるお方であることでしょう。ヨナ書もそうですが、神に訴え、神に叫び、神の答えを得ることが人の特権です。神は人との対話を惜しまれません。ですから自らの思いを素直に語り、訴えて、信仰の道を進ませていただきたいものです。