ハバクク書2章

2章 悪者は裁かれる
おはようございます。ハバククに神が答えを与えられるところです。より原理原則を語る形でハバククは教え諭されています。その原理原則をしっかり心に留めたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神と語り合う
神に対する抗議がどのように取り扱われるのか、これを見てみようと考えたのは、ハバククのみではありません。ヨナもそうでした(4:5)。面白いですね、神に語り掛けその応答をじっくり待つのです。「神と共に歩む」とはよく言われることですが、このような形で神とやりとりする人生を、私たちは歩んでいるのだろうかと思わされます。
そこで2章は、ハバククの抗議に対する神の答えとなる部分です。結論を言えば、たとえ神がカルデア人を懲罰の道具として用いても、カルデア人もまた悪となるなら裁かれるというのです。神は5-20節にわたり原理原則を詳述するのですが、その前に「幻を板の上に書き記して、確認せよ」と命じます(2節)。幻は、このハバクク書の預言そのものです。ハバククは、黙示録を書き留めたヨハネのように、神の声を聞いたのではなく、幻を見て預言を受けているのです(1:1)。それを書き記せ、それが保存され、伝えられるために(2節)、そして、神のことばの正しさが証されるためにというわけです(3節)。
2.4節を巡って
4節、ヘブル語で「信仰」と訳されたエムナーは、一般には「真実」「誠実」と訳され、「信仰」と訳されることはありません。また、出エジプト17:12では、モーセの手が「しっかりあげられていた」にエムナーが使われており、その本来的な意味は「揺るがないこと」のようです。つまりこの一文は、イザヤ風に言えば「志の堅固な者」は守られるということです(イザヤ26:3)。ヘブル語原文では「彼の真実」ギリシャ語七十人訳では「私の真実」と違っていて議論されるところですが、イザヤが「志の堅固な者」を「神を信頼する者」と言い換えしていることで説明がつくでしょう。つまり、人間の側の真実は、神の真実に対する信頼そのものなのです。実際、使徒パウロは、新約聖書にこのことばを二度引用しています。一つはローマ1:17で、信仰によって神から与えられる義について語る後で、神の義に対する信頼を勧める文脈です。また、ガラテヤ3:11では、律法による義と信仰による義を対比した後、神の業への信頼による救いを教える文脈で引用しています。要するに、神の業への信頼、そこを中核として心が定まっている、その者は生き延びるが、そうではない自分の業に信頼し、己惚れる者、心の曲がった者は、滅ぼされるのだ、というわけです。
このように総括的な明言の後、神はカルデア人、いわゆる奢り高ぶる者の五つ行為に対する災いを宣告するのです。それらは略奪(6-8節)、むさぼり(9-11節)、暴力(12-15節)、放蕩と残忍(15-17節)そして偶像崇拝(18-20節)で、神はたとえご自身の器とされたカルデア人であっても、これらの悪に染まるなら、それを決して許すことはないと言うのです。神は、正しいお方です。また神は心を見られるお方です。上辺ではない心を見られる神の御前にあることを覚え、神の真実さに寄り頼んで歩んでまいりましょう。